鷲田清一
ただザワザワとざわめいているだけでいいんだよ。はっきりとした音をお前から聴きたいなんて、思っていないのさ。耳を澄ましたりすれば、きっとお前も痛いだろうから。
——R・ボルハルト「休止」
(テオドール・W・アドルノ『三つのヘーゲル研究』渡辺祐邦訳、河出書房新社より)
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じぶんが生きるうえでこれまでずっと軸となってきたもの。身をあずけてきたものでもいいし、それに反撥することで身を組み立ててきたものでもいいが、そういうものを突然奪われたとき、そして二度とそれを手にすることができないと知ったとき、ひとはよろける。よろけても、身を支えることができず、地面に這いつくばることすらできずに、その場に蹲(うずくま)るよりほかなくなる。
手を伸ばしても伸ばしても引き戻しえぬものと、あきらめがつくまで、重い時間がひたすらつづく。「忘れていいことと、忘れたらあかんことと、ほいから忘れなあかんこと」(河瀬直美)の仕分けがなんとかついて、じわりじわり人生の語りなおしにとりかかれるのは、そしてふと忘れていることも忘れていられるような日が訪れるのは、おそらくはるか先のことになろう。それまでは、どうしても納得がゆかず、わめくこと、当たり散らすこと、出かけた言葉をぐっと呑み込むことが、少なからずあろう。そのたびに低い声でじぶんに言い聞かすことだろう。言い聞かす言葉を見失い、ついに言い聞かすその力を無くしかけることもあるにちがいない。
人生について語りなおすというのは、礎石ごと取り換えることだから、前以上によろけることもある。だからいざるようにしてしかできない。いざって行っても、道が途切れ、引き返す道も消えはて、ふたたび蹲(うずくま)るほかなくなることも、幾度となくあるだろう。
でも、それはけっして「独り旅」ではない。固唾(かたず)を呑んで、あるいは声を抑えて、じっと見ているひとがいる。よかれあしかれ、へんな横やりを入れるひともいる。思いやりが深すぎて厳しい言葉で耳を撃つひとも。ひとびとのあいだで揉みくちゃになるうち、ふと気づいたら背中を押されていたということもきっとある……。
そんな思いを込めて、東北の震災から半年ほど経ったころ、わたしは被災地に送るバッグの上張りにこう書き付けた――
「へなへな、とろとろ、ふわふわ、ぐずぐず、めらめら、いそいそ……みんな ○(マル)」
(わしだ きよかず・哲学者)