玄侑宗久
寒昴
たれも誰かの
ただひとり
照井 翠
* *
この句は現在釜石に住む俳人、照井翠さんの句である。
以前、講演で一関市にお邪魔したときお会いし、一緒に飲んだ。彼女の職歴も学歴も、なにも知らないが、やけに飲みっぷりのいい人だったことはよく覚えている。その彼女が今年の二月、『震災鎮魂句集 釜石@』と題された手作りの句集を送ってくださり、冒頭に標題の句が掲げられていたのである。
正直なところ、私はハッとした。
新聞やテレビは一万六千人以上の死者の数を連日報じ、また行方不明者の数も三千人を超えると告げている。たしかにその数はショックだが、じつは被災地の関係者にとっては、「あの人」の死あるいは不在だけが問題なのである。
恋人でも配偶者でも、親や子、恩人でもいい。とにかく「あの人」が本当に死んでしまったのかどうか、それが問題で、極端な言い方をすれば、ほかに何人死のうが、そんなことは関係ないのだ。
そのように切実な死が、「寒昴」の一言、つまり凍える空の星の静かな輝きに託して謳われる。
一瞬、無数の人々が寒風に立って、夜空を見上げる光景が思い浮かぶ。凛烈な北の空の星が、無数の人格や形象を映して見上げられる。誰もが「ただひとり」のあの人として寒昴を凝視するのだ。
しかしたぶん実際には、そんな時間はほんの一瞬のはずだ。照井さんだって本当は、飲んだくれ、泣きわめき、その場で寝入ったことさえあったのではないか。
しかし日本人は、それをかくまで美しく謳うのである。「たれも誰かの」と書き付け、自分だけじゃないことは諒解するものの、それで涙はかえって増え、寒昴の輝きもいよいよ増すばかりだ。
(げんゆう そうきゅう・作家、三春町福聚寺住職)