想田和弘
「いま」というのは、いつでも「過去」の結果です。それは、すでに結果が出てしまったことです。だから、悩む必要はないのです。いま何をやっているかによって、次の結果が出ます。
アルボムッレ・スマナサーラ『ブッダの教え 一日一話』(PHP研究所)
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東日本大震災発生時、あまりにとりかえしのつかない事態に、僕は言葉を失い、何をしたらいいのか分からず、しばらくの間、抑うつ的な状態にあった。特に原発事故については、人間が招いた人災であるだけに、怒りと悔恨に支配されていた。人類はなぜあのような危険な装置を発明したのか。われわれ日本人は、2度までも原爆を落とされた経験にも懲りず、なぜ地震の多い狭い郷土に54基も原発を建て、挙句の果てに事故を起こし、人が住めないほど水と空気と土を汚してしまったのか。
そんな思いに身を焦がし、自分自身がメルトダウンしそうになっていた際に、ふと目についたのがスマナサーラ長老の言葉である。いや、元をたどれば2500年前のブッダの教えだ。
正直言って、読んだ瞬間は「人間、そんなに悟れるものか」と反発を憶えた。しかし、同時に頭に冷却水をかけられたような気がした。そして少し冷えた頭で考え直してみれば、たしかに長老の、ブッダの言う通りだと思った。
起きてしまったことは、それがいかに受け入れがたいことでも、不公平でも、不条理でも、絶対に変えられない。いくら悔いても原発事故は収束しないし、国土を汚染した放射能も消えない。津波で亡くなった人も生き返ったりはしない。それなのに、僕は怒ったり悔いたりすることで、過去に対して何らかの手当をしているような錯覚をしていたのだと思う。
結局、僕らに変えられるのは、「いま何をするか」だけなのである。そして、その行為の結果として、未来が形作られていく。そういう意味では、生かされている限り、希望だってあるわけだ。逆にいまいたずらに怒りに支配されていれば、それに応じた未来が出来上がってしまう。
震災から1年経った現在も、原発事故は収束から程遠い。大量の使用済み核燃料を収めた4号機プールが地震等で倒壊すれば、東京を含めた広大なエリアを放棄せねばならなくなるとの恐ろしい予見もある。そういう話を聞く度に、ついつい恨み節も首をもたげそうになるのだが、それでもやはり問うべきは「いま何をするか」なのだと自分に言い聞かせている。
(そうだ かずひろ・映画作家)