河西英通

東北振興! その声、美である。されど吾等兄弟が真に目醒めない限り、そは、都会人の、資本家の、東北搾取の別名に過ぎないぞ!
(「東北の労働者に与ふ」『現代の秋田』1938年11月号)

*  *

 2000年夏に花巻を始点に国道283号を走って遠野から仙人トンネルを抜け釜石に入り、三陸海岸を北上したことがある。途中、大槌で「吉里吉里」というバス停を見つけ、感激した。井上ひさし『吉里吉里人』を想起したからだ。2004年夏には学生たちと東北巡見の途次、気仙沼の民宿に泊まり、塩焼きや刺身など大振りのサンマに舌鼓を打った。そして2011年3月11日。思い出の街が大地の底から揺さぶられ、巨大な津波に襲われた。やがて目に見えぬ放射能によって遠い未来まで破壊されたことを知る。
 そのとき何を感じただろう。まず誰しも抱いた恐怖だ。あの日あの時どこにいたのか。忘れないでおきたい。震源地から遠く離れ、長周期地震動を観測しなかったところでも、「日本沈没」の恐怖を強く感じた。この列島弧から逃れず、生き住まう覚悟を震災はつきつけた。
 つぎに差別だ。「自然すら東北を差別するのか!」という憤りは、すぐに人災としての東北差別を気づかせた。「原発植民地」の東北では天災と人災が十字砲火となって、巨大な悲劇を生み出す。近代以降、東北は一貫して国家・資本により「振興」の美名のもと構造化・機能化され「搾取」され続けてきた。冒頭にあげた叫びは昔話ではない。
 そして責任だ。被災地から多くの歴史資料が奪われた。損傷を受けた史料の保存・修復がすすめられているが、被災地の歴史は今後どう語られるべきか。史料を失った人々を「歴史なき民」にしてはならない。地域と人々に寄り添う歴史学をしっかり構築する責任が一人ひとりの歴史家にある。生と死を両手で繋ぎ止めたい。
 震災直後、「千年に一度」といわれた。ならば、被災の記憶を1000年は保とう。子々孫々にまで1000年は語り継ごう。記憶と伝承のための歴史学を立ち上げよう。なによりも安心して暮らせる地球を残そう。そうでもしなければ、無念の死をとげた人々の霊に顔向けできない。恐怖を乗り越え、差別を否定し、責任を全うし、この世界を変革したい。
(かわにし ひでみち・歴史家)