川上弘美

 戦争反対の根拠を、自分が殺されたくないということに求めるほうがいい。理論は、戦争反対の姿勢を長期間にわたって支えるものではない。それは自分の生活の中に根を持っていないからだ。
(鶴見俊輔「『殺されたくない』を根拠に」朝日新聞2003年3月24日夕刊)

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 9.11以降に始まったピース・ウォークを、文章の筆者である鶴見さんが出発点で見送っているところから、この夕刊の文章は始まります。そのまま筆は、38年前のベトナム戦争反対のデモと、この9.11以降のデモの違いを考察してゆきます。
 「歌も、合言葉も、身ぶりもかわった。かつての戦争反対デモは、戦中の軍隊の行進の形から手が切れていない。スローガンも、軍隊式である」、それにくらべてこのピース・ウォーク参加150人のうち、100人は女性で、50人が男性です。「男性には、共通の性格があり……女にひっぱられて生きる役割をよろこんで受けいれる男たちのようだった」。
 ここで間違えてはいけないと思うのは、鶴見さんは「女が強くなったものだよなあ」と言っているのではないということです。そうではなく、「軍隊式」と手が切れていなかった時には表に出てこなかった、その頃では「女性的」とされていたものが表にでて来、そのうえそれは決して途切れず飽きられず、淡々とその思うところを世界に向かって表明し続けているのだ、ということなのです。
 女性的、と書きましたが、それはむろん女性専売のものではありません。女性でも男性でも、「生活の中に根を持っている」人間ならば、誰でも身のうちにあるものです。
 原発は、人間にとって無理がある。わたしはそう考えていますが、それは二通りの出どころを持つ考えです。一つは、19世紀からの原子物理学の進みゆきを書いてある何冊もの本を読むこと、また現在の人類が持っているらしき能力――それは政治のありさまや社会の様子に端的に表れるものだと思うのですが――を観察すること、などから出てきた考えであり、もう一つは、毎日の食事の材料を洗い、切り、炒め、また風に乗ってきてたまる家の中の埃を拭き、また日差しとかぐわしい空気を浴びて歩きつつ目に見えない放射性物質が常に漂っていることを感じる、そのようなところ――すなわち「生活の中の根」――から、出てきたものです。
 果してわたしの中のこの「原発は無理である。どう考えても」という心持ち、そしてそれを細々とでも表明しつづける意志は、長続きするのか。忘れやすい生きものであるわたしは、本当のところ自分に危惧を抱いてもいるのですが、毎日の食事を自分で作りつづける限り、存外しぶとくこの心持ちと意志は自分の中にあり続けるだろうという予感も、たしかにするのです。その予感をうべなっていいのだ、ということの根拠を、鶴見さんの文章は、柔らかくわたしに教えてくれます。
(かわかみ ひろみ・作家)