森まゆみ
権力にたいする人間の闘いとは忘却にたいする記憶の闘いにほかならない
(ミラン・クンデラ『笑いと忘却の書』西永良成訳、集英社)
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3.11をわたしは千駄木の蔵で迎えた。そして翌日、九州の仕事先に向かった。東京電力福島第一原子力発電所の事故が怖くてなかなか帰りたくない。21日に帰ったら、ピカピカ電気の点いた九州とは違い、東京には空虚な風がふいていた。小学生は防災頭巾をかぶって登下校。なぜか街頭で牛乳を2パックもらった。古書店での音楽会には近所の人がさみしそうに集まって来た。こうした細かい状況はそのうちに忘れ去られてしまうだろう。その日から見聞きするすべてを記憶しておこうと決めた。
「記憶と事実は違う」。30年近い聞き書きの体験からそう思う。自分の記憶も手帳の記録と違ったりする。場所や時間はもちろん、感じ方も時とともに変わる。だからこそ記憶を鮮度のよいうちに記録しておかなければならない。「記録されないものは記憶されない」。この宮本常一の言葉も真実である。
4月にはじめて被災した海岸べりを歩いた。そこで出会った人々は誰にとっても忘れることのできない3月11日の固有の体験を話してくれた。聞いてもらいたがった。小さなビデオカメラで、その人たちの話を録画しはじめた。
わたしが畑を持っていた宮城県最南端の丸森は放射能で苦しんでいる。主要産品のしいたけやタケノコが出荷制限を受けた。「ヤマメやイワナを捕る楽しみ、キノコやタラノメを取る楽しみ、食べる楽しみ、人にあげて喜ばれる楽しみ、みーんな、なくなっちゃった」と会った人が言った。わたしの、夢のような里山を破壊したものたちへの怒りが、そのときこみあげてきた。
東京電力や政府や官僚は、責任をとらないために、記録をないがしろにして、きっとうやむやにしてしまう。記録はときとして歪曲も伴う。記憶を新たにし、記録を続けることが、抵抗の、怒りの表現である。
(もり まゆみ・作家)