犬塚 元

政治的思考および政治的本能は、理論的にも実際的にも、友・敵を区別する能力によって実証される。重大な政治のクライマックスは同時に、敵が具体的な明瞭さで敵として認識される時点なのである。
(カール・シュミット『政治的なものの概念』田中浩・原田武雄訳、未来社)

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 震災後、仙台市街地に生活するひとたちとの間で、幾度となく、不安定なアイデンティティをめぐって話が弾んだ。「あいまいな被災者」としての私たちをめぐって、である。
 東北大の研究室で震災に遭遇した私は、その帰路、車を路上に乗り捨てることを余儀なくされた。歩いてたどり着いた職員宿舎は傾いており、数日後には退去が命じられた。仙台市街地で、ライフラインが復旧して、食料が安定供給されるまでには、ゆうに一ヶ月を超える時間が必要であった。しかし、津波被災や原発周辺の地域を思えば、私たちが被災者や被災地と名乗ってよいのか、との自問は避けがたかった。
 マス・メディアに流通していった「被災地」像では、仙台市街地は「被災地」ではなかった。もとより、「あいまいな被災者・被災地」という不安定なアイデンティティは、仙台市街地に限られない。しかし、被害、苦悩、あるいは被災者としてのアイデンデンティは多様である、という現実に目配りした言説は、稀であった。
 多様な現実が単純化されてしまう状況は、弱まるどころか強まっていった。原発の深刻な実態が明らかになるにつれ、この争点をめぐって「味方か敵か」と問う言説が広まったからである。それは、カール・シュミットを思い出させる二元論であった。政治の本質とは、究極的には相手の殲滅をめざすまでの、味方と敵の対立である、というのがシュミットの指摘である。ニュアンスに富んだ多様な現実の一切は、「味方か敵か」という問いによって、二元的な構図のなかに整理される。
 「味方か敵か」という二分法の暴力は、被災地に、苦悩、疑念、怒りを生み出した。被災地復興が、従属的ないしは副次的な課題とされただけではない。エネルギー政策、災害廃棄物処理、低線量被曝、集合移転や地域復興、あるいは集合的意思決定のありかた──震災後の課題は数多く、それぞれは必ずしも連動するわけではない。ところが、かつての保守・革新の対立と同じように、「味方か敵か」という二分法の磁場のなかでは、味方の主張、敵の主張がそれぞれパッケージ化されて、二極対立の構図がつくられる。たとえば、震災瓦礫の「広域処理」は、政府・電力会社の側に立ち、原発を推進することに等しい、という乱暴な主張はネット上で珍しくなかった。
 なるほど、「味方か敵か」の二分法が有効となる場面はたしかにある。争点を単純化して「味方か敵か」を問い、小異を捨てて大同団結することが、政治的な力を発揮するために、時に要請される。しかし、こぼれ落ちるものがある。シュミット的な二元論は、「この」争点では連帯できるが「あの」争点では連帯できないかもしれない他者の存在に鈍感である。解決すべき課題は数多く存在し、それぞれについて知恵を絞るべきということは、ともすれば見失われてしまう。
 震災後、共同体の「絆」を強調する一元論の言説のあとに、「味方か敵か」の二元論が続いたとすれば、われわれはその次に、多様な課題とアイデンティティに敏感な多元的な観点に至る道を切り開けるであろうか。
(いぬづか はじめ・政治学者)