森崎和江

「人のもんは我がもん、我がもんは人のもんバイ」
「男もおなごもケツの巣は一つバイ、生きるための理屈は一つ」
(森崎和江『まっくら――女坑夫からの聞き書き』理論社)

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 私はかつての植民地時代の、現在の韓国の大邱(テグ)市で生誕。石炭はわが家でも小学校のストーブでも燃やしていたので知っていた。河原のようにどこかに転がっていると思っていた。戦後、石炭の産地を知りたくて、筑豊炭鉱地帯案内版を求めて、久留米市の自宅から列車を乗り継いで、中間駅で下車。駅前を通りかかる労働者ふうな男性に「石炭はどこで採れるのですか」と尋ねた。彼が「ほら、声が聞こえろ。地の下。今、掘りよる」と応えられた。「え! 地の下ですか」「そうたい」。彼はさっさと通り過ぎられた。私は全身が、がくがく震えた。ハイヒールを履いていた。恥ずかしくて、やがて石炭の町中間市へと移り、小さな峠を越えて鉱業所の坑夫長屋を訪問した。
 その長屋には三世代にわたって地下労働をしてこられた方々が「地の下のこた、神も仏も知らんと。人のもんは我がもん、我がもんは人のもんバイ」と、にこにこと元気に話してくださった。話しつつ隣家の夕食の支度をしたり。「地の下は、いつ非常が起るか分らんと。男もおなごもケツの巣は一つバイ。あんた、明日は大学の先生に会うちゅうたろが。ケツの巣は一つバイ。大学の先生にヘコヘコしちゃ、でけんバイ」「はい。大丈夫です」。私は九州大学に初めて朝鮮語を担当される方が来日されたので、彼にハングルを教えていただきに通い出したのだった。
 こうして『まっくら――女坑夫からの聞き書き』を刊行したあと、より幅ひろく坑内労働をされた男性女性の体験談を筑豊の各地へとお訪ねして『奈落の神々――炭坑労働精神史』を刊行した。私が中間市で暮らしたのは昭和33年の秋から約20年。筑豊は43年には全面閉山となり、労働者の多くは北九州市の工業地の下請孫請に働きに行かれた。地下労働の日々が、命がけであることをまざまざと感じさせられつつ、地上での共生の姿の爽やかさに教えられ導かれて、私は生き直しの旅へと、出発したのだった。
(もりさき かずえ・作家)