志村ふくみ

彼らは見たのである。何よりもまず見たのである。見得たのである。凡ての不思議はこの泉から湧き出る。……だが真に物を見得る者がどれだけあろうか。
(柳宗悦「茶道を想う」熊倉功夫編『柳宗悦 茶道論集』岩波文庫)

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 たしかに私達は見た、目を覆うばかりの、信じられぬ大災害を。それは身心共にその根源の存在をも揺るがすものであった。しかし潮が干くように一朝一朝(ひとあさひとあさ)生々しい傷あとは消え、いかに無惨な現実もそのまゝではあり得ない。その後の歳月にどのような生き方があるのか。傷は深まるばかりだが、何とか立ち直る機縁にめぐまれるか。いづれにせよ受難による哀しみ、心底の打撃は決して癒えるものではない。人類の上にも、ひとりひとりの心の中にも永く刻印を押され、人々はその日より変った。
 どう生きてゆけばよいのか。たまたま私は上の言葉に接して、単に映像や報道で見るという事実と、見得るという言葉の間によこたわる深淵は測り知れないものがあるように感じた。
 見る、見得る。今私達はその間にあって、この国難ともいうべき災害を心の奥底からもう一度考えたいと思う。万葉にさかのぼる古語に「見ゆ」という言葉がある。いかにも日本的な大和ごころの匂うような言葉であるが、この「見ゆ」という言葉におきかえて考えてみると、自然の生成の中であっという間にその存在を飲みこまれてしまう儚い人間というものをしっかりと見とどける、その瞬間まで永生の願いを抱きつゞけ、生者と死者が共に手をとり見つめ合う、必ず忘れまいと心に深く記憶し、この生の中に永遠を見る、それが見得たということになるのではあるまいか。この不思議な泉から滾々(こんこん)と湧き出る生命の息吹き、その力をこの世にあってしかと受け止め、見て働き、愛するものを育み守り、いついかなる天変地異が訪れても、もうそれが避けることのできない現実であるならばこそ、見とゞけねばならない、物量に目をくらまされることなく。
 私のような高齢のものは何をするすべもないが、たゞひたすら若者を、子どもを、孫たちの上を思う。この地上にあるかぎり生命の息吹きをたやすことなく、「見ゆ」の世界を次の世に受け継いでもらいたいと願う。
(しむら ふくみ・染織作家)