島薗 進

願わくは此の功徳を以て
普く一切に及ぼし
我等と衆生と
皆ともに仏道を成ぜん

*  *

 私はどの宗教団体にも宗派にも長く留まったことがないが、祈りの言葉に親しむ機会が多かった。自分で記憶して唱えることができないのだが、耳に残っていてその響きを聞くと心安まる、あるいは心動かされる唱え言葉や歌詞がいくつかある。ここに掲げたのは、広く仏教諸宗派で読経の最後に用いられるもので、「普回向」とか「回向文」、あるいは「結願(けちがん)の文」などとよばれるものだ。
 読経をする、真言や念仏や題目を唱える、参詣・瞑想等の行を行うなどで「功徳」を積むことができる。だが、それは自分ひとりや家族など仲間たちだけのためのものではない。「普(あまね)く一切に」ふり向ける(回向)ことを願うというものだ。
 この通仏教的な祈りの言葉と宮沢賢治の「農民芸術概論綱要」の一節にはあい通じるものがないだろうか。

 世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
 自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
 この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
 新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
 正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
 われらは世界のまことの幸福を索(たず)ねよう 求道すでに道である

 災害を通じて心の底に潜んでいた大きな祈りや願いが形を結ぶようになった。ふだんは照れてしまって用いにくい言葉の中の真実が身近に感じられるのだろう。「寄り添う」というような言葉もそうだ。「雨ニモマケズ」や「うさき追ひし」で始まる「故郷」の歌が身近になったのも、そこに「祈り」や「願い」がこもっているからだろう。なお、日本では「祈」より「願」(四弘誓願〔しぐせいがん〕・弥陀の本願の「願」)や「念」(念仏・一念三千の「念」)が身近と感じる人も多い。

 賢治の「マグノリアの木」には祈りを思わせる次の一節もある。

 「けはしくも刻むこゝろの峯々に いま咲きそむるマグノリアかも」
 そもそも「心に刻む」というのも、祈りや願いに通じる言葉だ。祈りや願いが叶わないで苦しんでいる、あるいは悲嘆に暮れている。そのことが心に刻まれているので、人は今ますます確かな言葉を求めている。
(しまぞの すすむ・宗教学者)