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根をもつこと(下) シモーヌ・ヴェイユ/冨原 眞弓 訳 |
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『根を持つこと』は、ヴェイユの代表作とされています。亡命先のロンドンの下宿で、栄養失調に陥りながら、死の二ヶ月前まで書き続けられた遺著でもあります。とはいえ、ヴェイユにもっと時間があれば推敲を重ねたであろう作品は、決して読みやすいものではありません。一つには、構成のアンバランスさに理由があります。全体が三部からなる構成にもかかわらず、第一部は短くかつ詳細な小見出しがついているのに対し、二部三部と進むにつれて、そうした配慮もされなくなります。第一部より長い第二部には小見出し三つ、下巻に収録した第三部にいたっては、小見出し一つありません。話の筋道を追っていくだけでも大変です。ですがそれを根気よく辿っていくと、ヴェイユが目指そうとしたことがおぼろに見えてくる気がします。「根を持つこと」という言葉でヴェイユが目指した構想は「訳者解説」で委曲を尽くして再現されていますが、ここでは、ごく簡単に第三部の流れを紹介したいと思います。
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敗戦によって根こぎにされたフランスに必要なこと、それは、国をかたどる真の霊感を不幸のただ中で鍛えることである。フランスの真髄はもっぱら純粋さのうちに宿る。不幸のどん底にあるフランスは、自らの真髄の輝きを実在化させる行動にすみやかに着手しなくてはならない。かつてフランスがそうであったもの、再びそうあってほしいとひさしく待たれていたもの、1789年の精神、自由と正義の霊感に戻らなくてはならない。正義を実現する政治を目指すロンドンのフランス解放軍の使命とは、政治的・軍事的使命以上に高次な霊的使命である。思想の高邁さと霊的な伝統に基づき、有用性を基準とするのではなく、真に純粋な善を原動力とする行動に向かうことである。
行動はそれを生み出す原動力に実在性を与え、それまで存在していなかった原動力と感情を魂に湧き起こさせる。原動力の内に善を含まない行動は、その結果にも善を含まない。原動力に含まれる善と、結果の善とは比例する。複数の行動が可能である時、それ自体のうちに善への傾きを含む行動様式を選ばねばならない。善は唯一無二であり、総合的なものである。善にはあらゆる善きものが含まれ、純粋かつ真正なこの善と別個に存在する複数の善はない。完全な美と完全な真理と完全な正義はひとつである。世界の秩序つまり正義とは世界の美であり、美は善の証左となる。真理とは存在するなにかについての真理であり、真理は実在の輝きである。愛の対象は真理ではなく実在であり、真理を欲するとはその実在を愛することである。その真理がいかなるものであれ、その実在を愛することである。
真理を愛するためには、宗教と科学の和解・一致が必要である。歴史においても科学においても、力の観念のまったき変革が必要である。歴史においてはそれは偉大さの観念の変革、力の崇拝の拒絶となる。アレクサンドロスが成し遂げ、ナポレオンが欲し、目下ヒトラーが求め続ける偽りの「偉大さ」を歴史から追放しなくてはならない。力は偉大さとは無縁であり、力は弱さにおいて完全となることを理解しなくてはならない。歴史に痕跡を残さなかった純粋さ、その弱さを愛さなくてはならない。科学においては、粗野な物理的力とは異なる原理を求めること。物理的力は宇宙の支配者ではなく、宇宙に秩序と正義をもたらすものは、物理的力が永遠の叡智に全面的に従順しているからである。力を服従させるのは神の愛である。世界の美は完璧なる従順の輝きである。
人間もまた、自らの魂を空にし永遠の叡智を迎え入れることで、物理的力が支配する必然性のメカニスムを抜け出して、力を服従させる叡智を自らの内に宿すことになるだろう。神への従順へ人間を導くのは、労働である。かつて労働は聖なる供儀であった。労働とは、自らの全存在を物質のメカニスムが支配する宇宙に差し出すことである。労働とは日々の死であり、それは此岸の生が終焉する日まで続く。この肉体労働の真理、労働の聖性をあきらかにすることによって、人間は永遠の叡智、真理へ回帰することができる。
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荒地 T.S.エリオット/岩崎 宗治 訳 |
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本書では、『荒地』を一つの頂点と見なし、そこに到るまでのT・S・エリオット(1888-1965)の代表的な詩を選び、エリオットの前期の詩作の歩みをたどれるようにしました。収録作は以下の通りです。
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『プルーフロックその他の観察』より |
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J・アルフレッド・プルーフロックの恋歌/ある婦人の肖像/前奏曲集/風の夜の狂想曲 |
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『詩集(1920年)』より |
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ゲロンチョン/ベデカーを携えたバーバンク 葉巻をくわえたブライシュタイン/直立したスウィーニー/料理用卵/河馬/霊魂不滅の囁き/エリオット氏の日曜の朝の祈り/ナイチンゲールたちに囲まれたスウィーニー |
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『荒地』 |
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Ⅰ 死者の埋葬/Ⅱ チェス遊び/Ⅲ 火の説教/Ⅳ 水死/Ⅴ 雷の言ったこと |
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エリザベス朝の劇詩人や形而上派詩人、ダンテなどを愛読し、アーサー・シモンズ(1865-1945)の『象徴主義の文学運動』(1899年)に出会ってフランス象徴派に惹かれていった若き日のエリオットは、初めジュール・ラフォルグ(1860-1887)の影響下で詩を書いていたと言っています。『プルーフロックその他の観察』と『詩集(1920年)』では、非個性的な登場人物(典型的な現代人)を設定し、その内的独白を主調とした劇的構成によって、愛の挫折、性的頽廃、都市生活の不毛と倦怠等を描いて見せました。
「四月は最も残酷な月……」と始まる有名な『荒地』は、全5部から成る20世紀モダニズムを代表する前衛的な長篇詩です。いったん書き上げられた原稿は、先輩詩人エズラ・パウンド(1885-1972)の大胆な推敲を経て、およそ半分の長さ(433行)にまで縮められました。古典的な詩や劇からの引用・引喩が暗示する〈過去の栄光〉が〈現代の廃墟〉と対照され、愛と性、死と再生といった対立するモチーフや無数のイメージの断片を並置したシュールリアリズム的コラージュとなっていますが、中世騎士物語の「聖杯伝説」と植物神オシリスの「再生神話」の枠組を使って、全体に統一感を与えています。膨大な数にのぼる引用・引喩、原型的なパターンや文化人類学的枠組によって過去と現在が重ねられ、奥行きのある重層的な世界を作り上げています。
エリオットの特徴を列挙していくと、直接的・直情的でないこと、自分のしていることに極めて自覚的だったこと、批評的なことなどが浮かびます。連綿と続いてきた長い文学の歴史の流れの端に自分はいて、その歴史全体の中で自分が占めるべき詩人としての位置を見極め、今の時代に生きているこの自分が、存在意義のある自分ならではの作品を書くということ、そのことをいつも強く意識していた人でした。例えば、エリオットは現代美術でも用いられるコラージュの手法をよく使いますが、これは普通なら結びつかない異質な断片を組み合わせることで意外な面白さを生み出すものです。これが単なる行き当たりばったりのでたらめなものなら、その意外性は底が浅く、持続的な力は持ち得ないでしょう。エリオットが巧妙であったのは、コラージュに用いる断片に過去の文学的遺産を踏まえたこと、あるいは踏まえていると匂わせたことにあります。これにより作品に時間的空間的広がりと奥行きが生まれたのです。方法としては革新的、モダンでありながら、伝統や歴史の厚みも充分にそなえているという二面性、ここにエリオットの面目がありました。こういう詩人ですので、その詩をさっと読んだだけでは面白さはなかなかわかりません。本書には訳者の岩崎宗治氏に詳しい訳注と解説をつけて頂きましたので、これを読みながら精読していきますと、だんだんとエリオットの面白さと大きさがわかってきました。いわゆる〈現代詩〉はすっかり難解の代名詞のようになってしまいましたが、ひとかたならぬ意気込みと矜持をもって始められた〈現代詩〉の試みの出発点に立つエリオットの詩を読み直してみることで見えてくるものはきっとあるはずです。
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緑の家(全2冊) バルガス=リョサ/木村 榮一 訳 |
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皆さんはバルガス=リョサという作家をご存じでしょうか? 岩波文庫だから大昔の物故作家だろうと思われては困ります――(バルガス=リョサは、現役バリバリの作家です)――ので、簡単にご紹介いたします。1936年に南米ペルーで生まれたバルガス=リョサは、1959年、短篇集『ボスたち』でデビュー。63年、長篇小説『都会と犬ども』で一躍脚光を浴び、65年、今回岩波文庫に収録することになりました大作『緑の家』により、30歳にしてラテンアメリカ文学を代表するもっとも優れた作家の一人として認知されるに至りました。そして、1976年には、若干40歳にして、国際ペン・クラブ会長に就任(-79年)。その他の作品に、『ラ・カテドラルでの対話』(69年)、『パンタレオンと女たち』(73年)、『世界終末戦争』(81年、第1回リッツ・パリ・ヘミングウェイ賞)などの小説のほか、エッセイ集、フローベール論、ガルシア=マルケス論などもある、現代ラテンアメリカ文学の〈ブーム〉の世代を代表する作家です。(残念なことに、1990年のペルー大統領選挙に出馬して、あのアルベルト・フジモリに負けたあたりから、ノーベル賞が遠のいたと言われています。)
さて、今回刊行される『緑の家』。ラテンアメリカ文学といえば、だれもが思い浮かべるのがガルシア=マルケスの『百年の孤独』ですが、あの魔術的リアリズムの傑作に十二分に拮抗する力をもった、物語性のきわめて強い作品です。この『緑の家』を読むかぎり、欧米を中心とする国々においてよく言われる「小説の行き詰まり」「小説の困難」などはまったくの嘘っぱちとしかおもえません。岩波文庫化にあたって底本とした新潮文庫版、その新潮文庫版が底本とした単行本(新潮社)が1981年に出版された当時は相当に話題になった本で、外国文学をやっている者で、この『緑の家』を読んでいない者は「もぐり」だ、と言われた、という噂もあるほどです。
この作品は、作者が少年時代を過ごした沿岸部の乾燥した土地ピウラの町の思い出と、たまたま参加した密林地帯でのインディオ調査によって得たさまざまな一次資料をもとに書かれた長篇小説で、当初は別個の二つの作品として執筆を始めていたものが、書いているうちに二つの物語が互いに侵犯しあうようになってきたため、予定を変更して一つの作品にまとめられたといいます。ラテンアメリカの由緒ある文学賞ロムロ・ガジェーゴス賞の第1回受賞作(1967年)でもあります。
治安警備隊員と二人の尼僧をのせたランチが川を遡り、密林の奥のアグアルナ族の部落に入りこんでいく場面からはじまるこの小説は、全体が77の断片から出来上がっており、五つのサブストーリーが循環するように語られていきます。密林の中の島で好戦的なインディオを手下に従えて他部族の略奪を繰り返す日本人フシーア、白人の搾取に抵抗しようとして逆に痛めつけられてしまうインディオのフム、カトリックのシスターに保護され、サンタ・マリーア・デ・ニエバという村の伝道所で暮らすインディオの少女ボニファシアと、彼女に恋をする治安警備隊の軍曹、どこからともなくピウラの町に流れ着き、砂漠の中に緑色をした娼家「緑の家」を建てる神話的な人物アンセルモ、リマの刑務所を出所してピウラに戻ってきたリトゥーマと、その彼を迎える三人の不良仲間と娼婦になってしまった彼の妻ラ・セルバティカ……。いったん書かれた小説の原稿を意図的にバラバラにして、シャッフルして綴じ直したような感じの小説ですが、それら時系列すら前後しつつ並行して進行するさまざまなエピソードのおもしろさに惹きつけられて読みすすむうちに、やがて場面と場面が結び合い、人物と人物がつながり合い、過去と現在がお互いを照らし出し、未開と文明が対決し、いつしか壮大な小説世界が立ち現れます。いくつもの支流が合流し、滔々と流れるアマゾンの大河のような小説といえばいいでしょうか。ミニマリズムの作品とはちがって、小説とはまさにこうあってほしいものだ、と再確認させてくれる大作です。分量はそれなりにありますが、読後感は圧倒的です。
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芥川竜之介俳句集 加藤 郁乎 編 |
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「余技は発句の外には何もない」と語った芥川竜之介は,終生俳句に格別の思入れを持ち続けた.芥川竜之介の俳句は,洗練されたレトリックによる技巧の冴えと,近代人の繊細な感覚をよく伝える.また,芭蕉,丈草ら江戸俳諧の伝統を踏まえた格調の高さを守っている点にも,その独自さがある.珠玉の如き芥川の俳句千百余句を集成.
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