編集部だより 岩波文庫編集部

1月17日


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文庫目録2011年版
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 現在第3巻まで好評刊行中のプルースト『失われた時を求めて』(全14冊)。訳者の吉川一義先生と読む新訳の講義が、朝日カルチャーセンター新宿教室で2011年春から開講中です。2012年1月からは、第2篇『花咲く乙女たちのかげに』第1部「スワン夫人をめぐって」を取り上げます。1月28日、 2月18日、 3月24日の全3回。
   
 文豪ゲーテを一夜にして時代の寵児とした傑作『若きウェルテルの悩み』。作品に秘められたゲーテの恋を描いた映画が公開中です。
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全国各映画館にて順次ロードショー。
   
 毎回ご好評の「岩波リクエスト復刊」。たくさんの読者のリクエストを参考に今回は28点34冊を復刊いたします。2月22日発売です。


   
 恒例の「読みやすくなった岩波文庫(重版・改版)」が刊行されました。活字を大きくゆったりと組み、また注やルビなどをつけて、より読みやすい文庫にしました。


   

1月の新刊

折口信夫古典詩歌論集 藤井 貞和 編
ウェイクフィールドの牧師
―― むだばなし
ゴールドスミス/小野寺 健 訳
アブサロム,アブサロム!(下) フォークナー/藤平 育子 訳
フランシス・ジャム詩集 手塚 伸一 訳
 

折口信夫古典詩歌論集 藤井 貞和 編
   岩波文庫には、これまでに折口信夫の著作を三冊収録しています。『歌の話・歌の円寂する時 他一篇』は若い読者に語る短歌文学史と近代歌論、『死者の書・口ぶえ』は小説、『釈迢空歌集』は歌集。今月お届けする『折口信夫古典詩歌論集』は四冊目の文庫となります。 上記のラインアップにもあらわれているように、民俗学者・国文学者として「折口学」と呼ばれる独自の学問体系を確立した折口信夫は、一方で釈迢空の名のもとに短歌・詩・小説など言語表現分野のあらゆるジャンルにおいて創作を行いました。「私の学問は、最初、言語に対する深い愛情から起こったものである」という折口の、創作と学問との双方を、「うた」がつらぬいています。
「歌こそは、一期の病ひ―。/しきしまの 倭の国に、/古き世ゆもちて伝へし 病ひなるべき」(『古代感愛集』)
  「一期の病」とも表現されるほどに、折口の核心にありつづけた日本の歌――本書ではその「うた」を論じた、「折口学」の精髄ともいえる13篇を編みました。収録作品は以下の通りです。
「叙景詩の発生」「短歌本質成立の時代――万葉集以後の歌風の見わたし」「女房文学から隠者文学へ――後期王朝文学史」「古歌新釈」「古代民謡の研究――その外輪に沿うて」「古代民謡の研究」「難解歌の研究」「誹諧歌の研究」「俳諧の発生――農村におけるかけあい歌」「山の音を聴きながら」「文学に於ける虚構」「評価の反省」「詩歴一通――私の詩作について」
 記紀歌謡から古今・新古今、玉葉・風雅へ――数々の「うた」を読み解きながら、自然美観の展開や文学の担い手の変遷に着目し、数世紀を降りきたって圧巻の文学史論。また一首三十一文字にこだわりぬいて、従来の解釈をはるかにしのぐ鮮やかで濃密な読解を展開する各論、さらには折口自身の詩作についての述懐。国文学的な厳密さと詩的な直観が、リズムのようにわかちがたく絡みあうのが折口歌論の魅力ですが、それは一般読者にとっては、魅惑されるとともにしばしば難解さとなってあらわれます。
「折口信夫を注する試みである。」(本書「解説」書き出し)
 これまで多くの読者が望み、あまりなされてこなかった試みとして、本書では現代の読者のために注を付しました。藤井貞和氏によるこの注は、杖と頼みつつ読みすすんでいるうちに、次第に折口のリズムに沿う「合いの手」のようにも感じられ、読書の楽しみを増してくれます。
 新しい試みであるとともに、決定版。専門的な知識・関心をお持ちの方から、興味はあれど何から読むか迷っていた方まで、多くの読者に手にとっていただきたい一冊です。
   
ウェイクフィールドの牧師―― むだばなし 
ゴールドスミス/小野寺 健 訳
    『ウェークフィールドの牧師』(1937年、岩波文庫)の新訳です。
作者のゴールドスミス(Oliver Goldsmith, 1728-74)は、アイルランド在住の牧師の子に生まれ、苦学してダブリンの大学を卒業したあとは、聖職や法律家などを志すも果たせず放蕩に走り、さらにオランダのライデンで医学を学ぶも、これも失敗。大陸各地を放浪したという人物です。困窮生活のなか、1761年に当時の文壇の大御所サミュエル・ジョンソン博士の知遇を得て物書きとなり、文筆家として世に認められたのですが、その大陸を放浪した姿は、本書『ウェイクフィールドの牧師』の登場人物ジョージに色濃く映されているところです。
 あらすじを簡単にご紹介いたしましょう——。
 英国の片田舎に住むプリムローズ牧師には、七人の家族がいます。妻デボラ、長男ジョージ、次男モウゼズ、長女オリヴィア、次女ソフィア、 三男ディック、四男のビル。
 つまるところは、この一家が次々と襲来する災難に呆然としながらも、一家の主である牧師の信仰と世間知がないまぜになった《教養》に支えられて、屈することなく、大らかに生きてゆく姿を描いた小説なのですが、最初に一家を襲う不幸は、牧師が全財産を委託していた商人の破産です。おかげで一家は無一文になるばかりか、目前にせまっていた長男ジョージとウィルモット嬢の結婚もご破算となり、ジョージは仕方なく自立の道をもとめてロンドンへ旅立ちます。
 地代すら払えなくなった牧師は、地主のソーンヒル氏の世話で別の任地に移ります。その引越の途上、一家はバーチェルという正体不明の貧しい青年と知り合い、たがいに助けあう仲になり、その後バーチェルは、ソフィアに想いを寄せるようになります。
 さて、親切と見えた地主のソーンヒルはじつは悪人で、長女オリヴィアを騙して偽の結婚式を挙げ、もてあそんだ上で彼女を棄てます。オリヴィアは行方不明になり、その結果、彼女は死んだものと思われます。
 牧師はある日、偶然泊まった宿で、旅まわりの芝居の一座で役者になっているジョージを見つけ、こんどは軍隊に入るという彼を見送るのですが、その直後、牧師はオリヴィアに遭遇し、家へつれて帰ります。しかし、牧師とオリヴィアが帰りついたとたん、とつぜん家が火につつまれ、焼け落ちてしまいます。仮小屋のような家を建てて、生活を細々と再開するも、こんどは悪人の地主ソーンヒルが、滞納している地代を払えと牧師に迫り、払えないという牧師を投獄してしまいます。しかも獄中の牧師の耳には、帰宅以来その不品行を母親にとがめられて沈んでいたオリヴィアが死んでしまった、次女のソフィアも何者ともわからない男に誘拐された、という話が聞こえてくるのみならず、ロンドンへ行ったジョージは様々な仕事を転々としたのち、ヨーロッパ放浪の旅を終えて帰国するも、わが家の名誉を傷つけた地主ソーンヒル一味と決闘をした結果、父と同じ牢獄に入れられてしまうのです。
 若きゲーテがこの本を愛読したというのは有名な話だそうですが、ゲーテもおそらく、どんなに災難が襲ってきても挫折せず、ユーモア感覚を失わない温かな人生のありように大きな魅力を感じたのでしょう。牧師のユーモラスな人柄の魅力が全篇に漲っていて、英国文化の微妙な滋味を教えてくれる心温まる作品です。
   
アブサロム,アブサロム!(下) フォークナー/藤平 育子 訳
   1897年に生まれ、1962年に亡くなったウィリアム・フォークナー。今年は没後50年にあたります。その記念の年に代表作『アブサロム、アブサロム!』の下巻を刊行いたします(上巻は昨年10月に刊行)。
 『アブサロム、アブサロム!』という作品は、アメリカ南部のミシシッピに一代で大農場を築き上げたトマス・サトペンとその一家の悲劇を語る物語です。冒頭から、話は謎めき、異常な緊迫感を漂わせています。主人公サトペンをはじめとして、主な登場人物はみなすでに故人、彼らが生前に語った言葉、生き残っている人々が語る言葉、すべてが不確かなまま、口にするのもはばかれるような凄惨な事件の輪郭がぼんやりと浮かび上がるのです。
 上巻ではサトペンは強引でずる賢く、残忍な手口で財を成した人物として描かれていましたが、下巻に入ると一転、サトペンは「無垢であった」「無垢であることを自覚もしていなかった」、そして「無垢であること自体が罪であった」、と語られていきます。唯一の友人ともいうべきコンプソン将軍の言葉によると(それも伝聞を重ねたうえで記録されるのですが)、サトペンが生まれたウェスト・ヴァージニアの山村では、土地も物も誰のものでもないと同時に皆のもの、必要以上の物を欲しがる人は誰一人いない。人間の差異は、所有する物の多寡ではなく、腕っ節の強さや酒の強さで測られ、物をたくさん持つ人が持たない人を軽蔑することもない、そんな土地であったというのです。サトペン少年にも、人間には運の悪い人といい人がいることはわかっていましたが、運のいい人というのは、好機を利用して自分の手柄にするのを嫌い、運の悪い人には優しい気持ちを持つものだと素朴に考えていました。ところが、母親の死をきっかけに山を下り、数週間か数ヶ月か一年かそれ以上をかけて、じめじめとした低地に辿り着き、そこで初めて黒人を眼にして、白人と黒人のあいだに差異があること、白人同士のあいだにも差異があることを知りました。それまでは、煙突もなく雨漏りがするぼろ小屋に暮らしていても恥ずかしいとも困ったとも思わなかったサトペン少年は、白人農場主の家に行って黒人奴隷に門前払いを食らわされて初めて、他人が自分たちを見る眼で自分を見直し、「あいつら」と何が違うのかを必死で考え抜き、ついに、「あいつらと勝負するためには、土地、黒人、立派な屋敷を手に入れる」必要があるという答えを出したのです。
 貧しくとも差別のない桃源郷のような山間の世界に暮らしていた子どもが、山を下り、現実社会の掟を学び、それに必死で同化していく。聖書に出てくる人物をタイトルに冠した『アブサロム』には、悲劇のきっかけからしてこうした楽園追放という物語が埋め込まれていました。サトペンは悲劇を作った悪魔なのか? それとも宿命に従い滅びた神話的な英雄なのか? サトペンの人物像に揺らぎが生じます。
 わからないのはサトペンの姿だけではありません。サトペン一族を破滅に追い込んだできごとも、何が核心だったのか、いつ幕を下ろしたのか、答えが見えてきたかと思うと、違う可能性がほのめかされる。語り手たちは核心を口にしたようでもあり、避けているようでもあり、しかもそれぞれが核心と信じるできごとが同じなのか違うのか、いよいよ混迷は深まります。神のようにすべてを見通す物語作者の手法とは逆に、不確かであやふやなものとして語られる過去と、その過去に取り憑かれ言葉を繰り出す語り手たち――不可思議な人間の営みに目が眩み、最後まで謎に満ちた緊迫感が持続していきます。
   
フランシス・ジャム詩集 手塚 伸一 訳
   マラルメ(1842‐1898)、ヴェルレーヌ(1844‐1896)、ランボー(1854‐1891)といった象徴派の大物たちが登場した後、フランスの詩人たちは音楽性を重視し、先人を超えようと独創性を追い求めました。しかし19世紀末のフランスでは表現技法にこだわった空疎で晦渋な詩が目立つようになり、ある種の袋小路に陥っていました。そんなときパリから遠く離れたフランス西南端の風光明媚なピレネー山脈の麓で「朝露にも似た澄んだ声」が上がり、生命の輝きに満ちたはつらつとした詩が謳い上げられました。フランシス・ジャム(1868‐1938)でした。
 ジャムはスペインのバスク地方と国境を接するフランスの田舎町で生まれ、ほとんどこの地方周辺を離れることなく一生を送りました。学校の勉強には興味がもてず、大学入学資格試験(バカロレア)に失敗。進学をあきらめて代訴人になろうと見習いを始めるものの、神経衰弱になり、これも長続きしません。詩を作ったり、野歩きをしたりの気ままな生活を送り、文学サークルに顔を出しはじめます。そんなとき、たまたまイギリスから保養にやって来ていた作家クラッカンソープ(1865‐1896)と知り合います。自分で小さな詩集を作っていた当時20代初めのジャムでしたが、1893年に再度ジャムのもとを訪れたクラッカンソープはジャムを励まして50部限定の詩集を作らせ、ロンドンへの帰途パリに立ち寄った際、そのうちの4部をマラルメに渡しました。「真実であるために、ぼくの心は子供のように語った」という序文をもつこの詩集が、思いもかけない反響を引き起こします。
 マラルメは、《触れるか触れないかの指のタッチから生まれ、喧騒のみ多い今日、ぜひあってほしい詩、素朴ですが、快い細い声でしっかりうたわれた詩です。わたしはそれを本当に楽しく味わいました》と言ってくれました。ジッド(1869‐1951)は、《わたしには完全に理解できます。わたしが感心するのは、いまだかつて表現されたことのない感覚を、存在する現実のものと感じられたあなたの物を見る真摯な態度です》と言ってくれました。また、レニエ(1864‐1936)も賛辞を寄せてくれました。
 1897年にジャムは雑誌で「ジャミスム(ジャム主義)」の宣言をします。《美しい習字のお手本をできるだけ正確にまねる子供たちのように、詩人は真心をもって、きれいな鳥を、花を、魅力ある脚と愛らしい乳房をもつ少女を写す詩派……わたしはそれで充分だと信じる……万物は、それがありのままの姿であるとき描くに値するのだ》云々というものでした。1898年に刊行された『明けの鐘から夕べの鐘まで』は、まさにこの「ジャミスム」を実践した詩集でした。音綴数や脚韻といった古典的な詩の約束事にはまるで無頓着ながら、独特のリズムをもった伸びやかな詩がそこにはありました。
 ジャムは、サマン(1858‐1900)やクローデル(1868‐1955)らとも友情を結び、36歳のとき、クローデルの導きで聖体拝領し、カトリック教徒となります。『明けの鐘……』以後、最後の『泉』まで多数の詩集を刊行したジャムですが、カトリックへの回心は彼にとっては大きな出来事で、詩は宗教色をいっそう濃くしていき、後期に至るほど詩形は古典的なものへと整っていく傾向がありました。中でも『四行詩集』は文字通り四行詩を集めたユニークなもので、このあまりにも短い詩形は、余白の美、余韻の美といったものを生み出し、三好達治に影響を与えたと言われています(堀辰雄もこの四行詩集を少し訳しています)。ジャムの詩は総じて素朴なので、日本人にはいわゆる詩人らしい詩人として、親しみやすいと思います。驢馬の詩をどこかで読んだ記憶のある方もいるのではないでしょうか。
 かつては新潮文庫や旺文社文庫で『ジャム詩集』が出ていたことがありましたが、現在は品切れか絶版になってしまっています。今度の岩波文庫版『フランシス・ジャム詩集』は長年ジャムに親しんできた訳者によるバランスのとれたアンソロジーとなっていますので、多くの方々にご愛読いただければと思います。
   
   

1月の重版再開

雨瀟瀟・雪解 他七篇 永井 荷風
森鴎外 石川 淳
近代日本人の 発想の諸形式 他四篇 伊藤 整
シチリアでの会話 ヴィットリーニ/
鷲平 京子 訳

1月のワイド版文庫

今月の新刊(1月20日刊行)  
アリストテレス ニコマコス倫理学 高田 三郎 訳

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