巻 頭 言・2000年10月号

 “科学”を“学ぶ”ということ

 自然科学にせよ社会科学にせよ,その核心には“われわれの恣意から独立な物事の尊重”と“明晰性の追求”がある.前者は世界についての偏見や錯覚に対する批判的自省的な構えのことであり,通常,客観性の尊重といわれている.後者は科学的理解が人類に共有されるために言説からあいまいさを排除する努力のことである.ただし,明晰性を明晰に規定することはできないので,われわれは常に“より明らかに語る”努力をしなくてはならない.また客観性の客観的規定も不可能であり,そのための不断の反省と懐疑的省察が欠かせない.たとえば,ソーカル,ブリクモン著の‘「知」の欺瞞’に縷々述べてあるとおりである.

 “科学”を“学ぶ”ということは以上述べた“構え”を理解し日常生活でそれを活用する能力を身につけること,およびこの“構え”によって自覚的に獲得されてきた世界の見方,ものごとの考え方を人類文化の精華として身につけることだ.

 大多数の人々のふだんの生活では,実験,観測が実際にできることは重要でない.初等的以上の計算が要ることもないだろう.だが,“したがって”いわゆる“ゆとりの教育”で一般の人々は必要な科学を身につけることができると短絡してはいけない.基礎的な実験,観測,計算などの修練を積むことは,科学を身につける効果的な道筋である.科学によって獲得された世界の見方は日常経験から容易に再発見できるようなものではないからだ.かなりの精進なしに人類文化の精華が継承されうると期待するのは安易にすぎよう.さらに加えて,身につけるべき“科学的知識”もそうそう少ない量にはできない.基本的事実についての知見は科学の枝葉末節ではなく科学的世界観の構成要素である.また,意味のある知識は断片的なものであってはならず,互いの有機的連関の理解も要求される.

 “科学”を“学ぶ”とは,“科学的知識”を関連しあった総体として,“科学的構え”とともに,基礎的訓練をとおして身につけることなのだ.いかに多くの社会人が科学をこの意味で身につけられるかが,科学,ひいては人類の将来を制しているようにみえる.お仕着せでなく何かが身につくために,各自の能動的学習に優るものはないから,小学生時代から自発的学習の意欲をいかに増進するかが鍵になるだろう.

 “生き方としての科学的構え”とそれと一体の“基礎的科学知識の総体”の会得を少しでも実効的なものにするために,結局,初等から専門にわたる各レベルで“各自の能動的学習を支援する電子的環境+先達と(人間対人間として)随時面談でき意欲をかきたてうる人的環境”を整備することが,21世紀の持続可能な人類文化を支えるかなり重要な事業であるように思われる.これは,工夫された初等教育に育まれた学習意欲や関心が持続できる環境を整えるという身近な目的のためにも無駄でないに違いない.だが,このような環境の整備を通して,学習の仕方の大転換を今や考えるべき時ではないだろうか.

大野克嗣(イリノイ大学物理学科,慶應義塾大学数理学科) 

 

*無断転載を禁じます(岩波書店‘科学’編集部:kagaku@iwanami.co.jp).

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