巻 頭 言・2000年12月号
ひとたび知ったことは,たまたま記憶から失われることはあっても,意識して忘れ去ることは困難である.たとえ忘れても知る前と同じ状態にはもどれない.個人だけでなく人類全体でもそうである.獲得した知識を社会の中に蓄えておくことを可能にして以来,人間は知識の拡大に努め,それが生存のための強力な武器になってきた.
間もなく終わろうとしている20世紀は,人類の歴史にとってどのような意味をもつのだろうか.幸いにも人類が数百年後にも生存し,今日を振り返ることができたとしたら,今世紀を特徴づける言葉として何を選ぶだろうか.もしかしたらそれは“指数関数的増加”となるかもしれない.人口と,それをはるかに上回る増加率で知識が急増した.その両者に科学が深く関わっている.
20世紀の科学は相対性理論と量子力学の誕生に始まった.世紀の半ばに,コンピュータが発明され,DNAの二重らせんが発見された.ビッグバンとプレートテクトニクスによって宇宙と地球の理解が飛躍的に深まり,ヒトゲノムの全解読とインターネットの全球的普及をもって今世紀は終わろうとしている.これらは人類の輝かしい成果といっていいだろう.宇宙の始まりについて無知であった時代にはもどりたくない.しかし同時に私たちは,微量ではあるけれども胎児に不可逆的影響を与える恐れのある内分泌撹乱物質が母乳に含まれていることを知っている.前世紀にはほとんどなかった人工化学物質で北極のクマまで汚染されている.環境破壊が微弱であった時代にもどることを希望しても,それはまったく不可能である.
私たちは“指数関数的増加”を制御する手段をもっていない.たとえば温室効果ガスの増加を止める実効性ある対策は実現していない.知識の拡大に制約を加えようという意見は多くの賛同を得られないだろう.知識拡大に制限をかけることは人間の活力をそもそも失わせることになるだろう.だから,来世紀も科学は発展を続け,その“副作用”として環境破壊のようなことも次々に生じるに違いない.
小誌‘科学’は21世紀の最初の年に創刊70年を迎える.寺田寅彦,岡田武松ら5人の編集委員に石原純を主任として1931年にスタートした.その創刊の辞に“学界と,之を取り遶【めぐ】る一般社会並びに特に将来の学徒たらんとするものとの間によく連絡を保たしめん”ために雑誌をつくると述べている.いま科学雑誌に求められているものは何か.私たちは,増え続ける新知見や課題の中から何が本質的に重要なものであるかを見抜き,社会に影響を与える問題の存在をいち早く捉え,それらを広く世に知らせ,社会的文脈においても議論する場をつくっていくことだと考える.科学と技術は人類の未来を左右する力をもっているのに,日本ではそれを議論する機会がますます少なくなっている.日本の一般科学雑誌は衰退の危機にある.それには理科離れといわれる社会状況の反映もあるだろうが,雑誌自体がその使命を見失ってはいけない.そのような自覚をもって小誌は執筆者そして読者とともに次の世紀も歩んでいきたい.
編 集 部
*無断転載を禁じます(岩波書店‘科学’編集部:kagaku@iwanami.co.jp).