巻 頭 言・2001年2月号

 文系と理系の間の溝を埋める

 先頃の本誌特集“なぜ,(自然科学)を学ぶのか”(2000年10,11,12月号)は読み応えがあった.そのエコーはいまだに私の裡で減衰の兆しをみせていない.中でも11月号で細矢治夫氏の語る“理系と文系の深い深い溝”は気にかかる.文部省の教育課程審議会の会長を務めた文学者が“中学時代に悩まされた2次方程式の解の公式など,学校を出てから一度も使ったことはないし,その御利益を受けたこともない.あんな下らないことは教える必要はない”と発言したという話は何としても信じがたい.文学の価値は無用の用にあるのではないのか.良質の文学が私たちの裡にひそかに育む“副作用”(江沢洋氏の名言,11月号)こそが文学の用ではないのか.中学での数学の勉強が与えてくれる副作用も貴重なのである.

 大学の理系学科を優秀な成績で卒業した者がオウム真理教に入信して大量殺人の手段を用意したことについて,“理系の学生は与えられたパラダイムを絶対に正しいものとして受容する教育を受けるから,…文系の学生は哲学にしても政治論,経済論にしても絶対に正しいものなどありえないことを学ぶからよいが…”という見解が表明されたことがあったが,ここにも文系と理系の間の深い溝が露呈している.文系にポピュラーな科学者観に裏付けされた理科的なものに対する軽視,蔑視である.

 しかし,この溝の存在には理系の側にも責めがある.理科教育に関するこの種の誤解はT.クーンに発しているのだが,理系の人々の多くは,彼がパラダイムという言葉を,理科教育に関して,どのような文脈の中で使ったかを知らないだろう.健全な理科教育のために,文系のこうした誤解を除くことが必要だとすれば,その誤解の由来を尋ねて“理解”し,それを機会に,私たちのナイーヴな科学観を反省すべきである.“なぜ,科学を学ぶのか”“なぜ,科学を教えるのか”この重い問いには,職業的利害や技術立国の題目から遠くはなれた個々の人間の内奥で答えるべきであろう.その上で,新資本主義経済という名の人間の欲望体系と,それが容赦なくドライヴする科学/技術との関係を,自らの倫理的問題として見据える社会的視座に私たち理系の人間が立つとき,文理の溝の半分は埋められるであろう.科学/技術という形での,自然に対する人間の認識・操香z\力には,まことに驚くべきものがある.この恐るべき能力を生物としての人間が獲得してしまった事実を進化論的な必然性から説明することはできないだろう.この能力は人類にとってプラスなのか,マイナスなのか? 環境悪化と戦争が決定的にマイナスの答えを出す前に,私たちはプラスの側に答えを置かなければならない.21世紀には文系理系を問わぬ人間全体の英知が試されよう.

 私たちに求められているのは,自分で考え,その考えをはっきり主張しつつも,他の意見の存在を認め,それに照らして絶えず自己検証を怠らぬ精神であろう.教育の現場にある友人たちは一様に語る.“日本の若者は自分で考える力を失った”と.これは若者だけの問題ではあるまい.“理科ばなれ”以前の問題である.20世紀のさまざまなできごとは,自分で考える力を失った人間たちの社会がはらむ恐ろしさを教えてくれた.科学/技術の問題は,何かを悪玉に仕立て上げればそれで解決するような生やさしいものではない.人間の根源的本性に深く関わる問題なのである.

藤永 茂 (カナダ・アルバータ大学(名誉教授)) 

 

*無断転載を禁じます(岩波書店‘科学’編集部:kagaku@iwanami.co.jp).

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