巻 頭 言・2003年1月号

再発見される生命のフロンティア

内藤 靖彦
(ないとう やすひこ 国立極地研究所,総合研究大学院大学(海洋動物学))

 冷戦時代のさなか,1960年代に,アメリカの威信をかけてケネディはアポロ計画を推進したが,同時に海洋探査計画も積極的に進めていたことは意外に知られていない.有人深海潜水艇が開発されたのも,長期海中滞在が計画されたのもこの頃である.当時は宇宙も海洋も人類の大きなフロンティアであった.しかし,その後の両者への取り組みの過程は異なっている.宇宙は地球の外のことであり,非現実であり,そのぶん夢が多くあった.海は地球の一部であり,身近な生活の一部であり,そのぶん現実的課題が先に進んで夢の部分はすでにないようにも思われる.しかし,これはむしろ逆ではないだろうか.われわれは,宇宙の星を太古の時から仰ぎ眺め,かな宇宙に不思議を感じていたのであろう.宇宙は遠い世界であるが,常時見えている世界であり,視覚的にイメージを膨らませることができる世界でもある.このため天体望遠鏡の発明があり,天文や宇宙科学の発達が促されたといえる.対照的に,深い海の中はわれわれには見えていない世界であった.海の中を視覚的に捉える試みはギリシャ時代からあったが,本格的に可能になったのは最近のことである.宇宙と海洋への取り組みの違いは,距離の問題ではなく,視覚的アプローチが可能であったかどうかである.海洋では「百聞は一見に如かず」というわけにはいかない.
 地球生物は陸上生物と水中生物の2つの生物群に分けられる.われわれ人間は最も知的に発達した陸上グループであり,地上のあらゆる場所に溢れるばかりに生息し,出現している.そして今や宇宙にも進出しようとしている.一方では,海洋は陸上よりかに多くの生物が生活している世界であるが,われわれは,そこで生物がどのように生きているかを実はあまり分かっていない.多くの海洋生物は常時水中にあり,陸上生物のわれわれに時時刻刻の姿を見せることはない.海洋は平均の深さが3800mもある3次元空間であるが,海洋生物がこの空間をどのように利用しているかについてさえ詳細を知らない.海水は空気の800倍以上の重さがあり,深さとともに重さは水圧として生物にのしかかっているわけだが,他方では浮力が働き地球の重力を相殺している.生物は水圧と浮力にどう対応して,重い海水の中をどのように移動するのか.光の減衰が大きい,海洋という暗黒の環境下での生物の視覚的空間の広さはどのくらいなのか.比熱や鉛直的な温度変化が非常に大きい海水の中で,環境温度にどのように対応しているのか,大量の塩分を含んでいる水中環境に対応している方法は等々,考えるとたくさんの疑問が湧いてくる.さらに,陸上とは全く異なる世界に膨大な数の生命が生存し,相互に依存した関係を築いて生きているが,海洋で多様な種の個体がどう維持されて,繁殖しているかはさらに複雑な世界である.こういった海洋生物の水生適応についての疑問は実験室において多くが解明され始めているが,複雑で困難な問題がいまだ数多い.それは海洋の環境を実験室に復元することが困難であるからだけでなく,移動する生物をあるがまま視覚的に捉えることさえ困難であるためである.われわれは,進んだ計測技術を用いて,個体の行動を視覚化することに成功し,いまや集団までを対象にしつつある.地球生命のフロンティアに遠からず戻るであろう.

*無断転載を禁じます(岩波書店‘科学’編集部:kagaku@iwanami.co.jp).

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