巻 頭 言・2004年8月号

流行語「危機管理」

倉田 毅
くらた たけし 国立感染症研究所(ウィルス感染症の病理学)

 今の日本ではこの語は全国隅々まで知らない人がいない位のいきおいで流行している.数年前,第1回のInternational Conference on Emerging and Re-emerging Infectious Diseasesがアトランタで開かれた.Henderson博士(Johns Hopkins大学)が約1時間バイオテロリズムについて話をされた.博士は1967年から10年間WHOで天然痘根絶計画の指揮をとられた.博士の主旨は「『バイオテロ』という語は一般研究者や厚生省で対応する分野ではなかった」.冒頭から「日本において,オウムというオカルトグループが数多くの生物化学テロをおこし,多数の犠牲者が出る迄,行政当局「「警察,自治体「「は全く何もしえなかった.全く考えられないことである.即ち日本政府には,危機管理能力がはたしてあるのか?……後から検証された証拠をみれば,随分前から分かっていたことであるようだ.民間人があれだけのことをやってのけたことを,どのステップでも止めえなかったことはunbelievableである……」と.民間人がサリン(松本,霞ヶ関),ボツリヌス毒素散布,炭疽菌培養液散布等,数々の犯罪をいとも簡単にやってのけたことを批判したものである.

 博士は「今こそバイオテロ,化学テロについて,全国民は身近な問題としてとらえ,対応していく必要がある」とされた.化学テロについては,化学剤は殺人用にしか用いることはできず,対応は軍とされているが,「生物」については通常どこにでもあるため,厚生省及び各州の衛生部が全面的に対応することになっている.この生物テロに対応し3800億円の臨時予算が組まれ,半分は各州のインフラ整備に使用された.以後CDCは年間400億円のバイオテロ対策費を組んでいる.

 そして2001年9月11日,想定もしなかった航空機を用いたテロ,続いて10月4日,最初の炭疽菌テロが発生した.

 わが国では,この数年間「危機管理」という語は草原の野火の如くあらゆるところで用いられるようになった.そして,あらゆるところでよく似た「危機管理マニュアル」が作られはじめ,今や「危機管理」を語らねばまるでアホ扱いである.マニュアルはひとつでよいのに,あるひとつの事象について似たようなマニュアルがいくつもあり,はたして事が起きたとき,どうするのだろう? 心配になってくる.わが国には基本的に前もって事が発生しないようにあるいは慌てぬよう準備する(Preparedness)という概念は存在しないか,かなり苦手ではないかと思う.本来の意味の危機管理とは大げさに枕詞に用い語ることではない.きわめて日常的な中に埋没して質的向上をたんたんと行うことである.日常性がきちっとしていなければ“Response”なんかできるわけがない.即ち予算(機材を含め)がかかる,人手がかかるからである.事がおこれば「しゃあないな」とする.しかし,事前の用意の方がはるかに安いことは,どの点を見ても良く分かる.

*無断転載を禁じます(岩波書店『科学』編集部:kagaku@iwanami.co.jp).

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