巻 頭 言・98年5月号

 推論的世界での思考法

 沖縄県竹富島は,赤瓦と白砂の歩道と咲き乱れるピンクのブーゲンビリアの花々に彩られ楽園のようなところだ.村の歩道の端の白い岩に腰をかけて,花々の奥からゆっくりと姿を現わしてくる老婆や,アカバナやブーゲンビリアの花に寄ってくるハチの小さな羽音がたてる静けさの中にいると,“美しい村”とは生活の美しさが創り出すものだというニュアンスの柳田国男の指摘に率直にうなずきたくなってくる.

 最近,観光に力をいれた過疎村が日本の各地にみられるが,その多くは発想が陳腐で魅力がない.それは観光客に媚びることによって映画のセットのようなニセの風景を形づくることが少なくないからだ.沖縄県竹富島の村もその歴史を詳しく調べると,観光への傾斜が少なからずあったのであるが,ギリギリのところで生活の美しさのほうに比重をおいてきたことが“美しい村”を保っている秘訣のように私は思っている.

 私は環境社会学を専門とする者であるが,この領域を通じて自然科学者とのつきあいがでてきた.環境問題が生起している現場では,どういう環境政策が出せるかで勝負が決まる.その政策決定過程において,自然科学者と社会科学者双方の貢献が期待されている.しかしながら,科学的論拠が十分に示せないことが多く,1割の科学的論拠,9割の推論,ということも珍しくないのである.それにもかかわらず,発言する義務があるという状況をいま私たちは迎えている.

 例えば,モンゴル国で,この国の山の樹木はどのぐらいの割合以上伐ってしまえば下の草原はダメになってしまうのかを調査したいという相談を受けたことがある.年間の地域別雨量,温度,山の斜面度,土の質,木や草の種類や分布,雪の溶け具合,河川と地下水の水量と流速,放牧の状態など,決定要因の多さと要因間の関連度の証明のむずかしさ,そしてその調査に要する時間と費用がとほうもないことは,日本で類似の調査をした科学者の苦労を知っていたので見当がつく.そんな調査の実施はモンゴルでは実際には不可能に近い.しかし問題点は,この自然科学的側面だけでなく,経済,政治,社会,歴史をも包含した当該地域の環境政策が緊急に要るという事実なのである.となれば,“9割の推論”のもつ意味が大きい.もっとも推論といえば聞こえがよいが,それはほとんどは経験的直感の世界である.水俣や薬害エイズ事件にみられるように,意図的にか無意図的にか,デタラメだがそれでいて社会的に影響力のある推論のため,社会的に実に甚大な迷惑をかけた研究者も少なからずいるようだ.

 しかし他方,このような経験的直感の世界で正しい判断ができる研究者が,自然科学,社会科学を問わず,どの分野でも必ずいる.それはどのような人たちなのであろうか.その人たちはもちろん優れた研究者なのであろうが,先にあげた“美しい村”をつくる秘訣を知っていた村人に似て,偽物と本物との間の微妙な差異をキチンとふまえている人たちであるにちがいない.現実は多くの推論を使わざるをえないのだから,この人たちの推論的世界での思考法を,専門分野によって細分されてしまった従来の知の体系とは異なった次元の新しい科学論として学ぶ必要があるのではないだろうか.そこには自然科学と社会科学を融合させた,知の世界が広がっているにちがいない.

鳥越皓之(関西学院大学社会学部) 

*無断転載を禁じます(岩波書店‘科学’編集部:kagaku@iwanami.co.jp).

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