巻 頭 言・98年7月号

 胎児性水俣病から環境ホルモンへ

 食物連鎖による水俣病の発生だけでも衝撃的であるのに,1962年,メチル水銀が母親に大きな障害を与えずに胎盤を通じて胎児に重大な障害を与えるという,さらに衝撃的な事実(胎児性水俣病)が明らかになった.

 1968年にはカネミ油症事件がおこって,母親の体内に長期に蓄積されたPCBが胎盤と母乳を通じて遅発性に胎児や乳児に障害をおこすという事実(PCB胎児症)も明らかになった.さらに,ベトナム,ラブ・キャナル(アメリカ),セベソ(イタリア)ではダイオキシンによる先天異常児の多発が生じた.

 20世紀の後半は胎児(未来のいのち)の受難が繰り返された時代であった.また,それまでの中毒の概念は急性中毒,慢性中毒で,たかだか長期微量中毒までであったのだが,胎児毒,催奇性,発がん性,免疫毒性,生殖毒性とその概念が急速に拡大していった.そのために,研究も対策もまったく追いつかない状況となっている.

 胎児性水俣病,PCB胎児症などによって,もともと自然界にはまったく存在しなかったか,あってもごく微量でしかなかった化学物質が脳血液関門,胎盤血液関門を通過して胎児・乳児の体内に入ることがわかっていた.また,水俣病の場合,SH基がタンパク質と結合する過程でメチル水銀がさらに強い親和性で結合するためにタンパク代謝障害をおこし,代謝が活発な脳や胎児において重篤な障害をとくにおこしやすいことが明らかになっていた.いま問題になっている環境ホルモン(内分泌撹乱物質)も母親に大きな障害なしで胎児に障害を与えるというその発生メカニズムに共通点がある.その意味では決して,突如おこったのではない.しかし,愚かにもわれわれは,胎児性水俣病に学ぶなどといいながら,じつはなにも学んでいなかったということになる.

 環境ホルモンなどのいま問題になっている化学物質汚染の場合はさらに,成人になってから発症するという(超遅発性)こと,症状が緩やかに発現すること,非特異的症状であることや安全基準の設定がむずかしいことなどから,従来のものよりはるかに厄介なものである.

 今回,環境庁が発表した内分泌撹乱作用が疑われる化学物質は67種類であるが,さらに,1000種類以上の化学物質がすでに疑われているという.そのいくつかの影響については研究されてきているが,わが国の研究の現状は外国に比べてお寒い限りである.国際協力による緊急な調査研究が必要なことはいうまでもないが,これらはわれわれが,便利さをただ追い求めた結果ではないか.今からこの多数の化学物質一つ一つの安全性を確認するには国家予算並みの膨大な経費がかかる.そこまでコストをかけて次々と新しい化学物質を開発する必要があるのだろうか.もう,無謀な開拓者の時代は終わりにすべきではないだろうか.

 原田正純(熊本大学医学部附属遺伝発生医学研究施設)  

*無断転載を禁じます(岩波書店‘科学’編集部:kagaku@iwanami.co.jp).

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