チンパンジー“アイ”に長男“アユム”誕生
 ―子育て観察日誌始まる

 ことばや数をおぼえたチンパンジーとして知られる京都大学霊長類研究所の“アイ”が,2000年4月24日午後10時49分,元気な男の子を出産した.この男の子の名前は“アユム(歩)”.アユムは,出産直後の約10分間は仮死状態だったが,アイがアユムの全身をなめる,口に人差し指を入れるなど,適切な処置をおこなって蘇生させ,出産を見守っていた関係者を安堵させた.アイは,出産以降,アユムを片時も手放さず,大切に育てている.アユムも,アイの母乳をしっかり飲んで健やかに育っている.アユムが生まれて約2週間がすぎたが,産後の経過は母子ともに順調である.

  アユムを抱くアイ――長男誕生の9時間後(写真提供:松沢哲郎).手前右にみえるのは胎盤.

 出産前,所内に設置された命名委員会が,関係者によびかけて名前を募った.母親と同じイニシャルのAで始まるという研究所の命名慣行にしたがい,アダム,アーサー,アルル,エイダなど,30を越えるさまざまな名前が候補にあがった.しかし,危険な出産を見守っていた関係者全員が安堵の思いで一致した名前が“アユム”だった.命名には,健やかにまっすぐ歩んでほしいという素朴な期待が込められている.

 これまで,飼育下のチンパンジーの研究では,ヒトによって育てられた子どもチンパンジーの発育に関するものが報告されてきた.それによって,ヒトの子どもとチンパンジーの子どもとの類似・相違点がある程度明らかになってきた.しかし,これから始まるアイの子育ては,ヒトの子どもの観察と同じ方法を用いて“チンパンジーの母親が育てるチンパンジーの子どもの知性の発達”を科学的に調べることができるという点で,世界に類をみない貴重な研究テーマということになる.本来の母親が子どもを育てるという“ごくふつうの”よくある親子関係の中で,ヒトとチンパンジーの知性の発達を直接比較することが,アユムの“歩み”によって明らかにされていくだろう.

 また,アイがおぼえたことばや数といった知識を,アユムがどのように受け継いでいくか,といった“知識や技術の世代間伝播”の研究の進展も期待されている.アイは,5月5日に“産休”を終え,これまで続けてきた日課である数の記憶の勉強を再開した.アユムを抱いての勉強である.今のところ,アユムはまだアイのお腹に抱かれて,すやすやと眠ったり,母乳を飲んだりしている段階だが,アイはときどき手を休めてアユムを揺すりあげたり,見おろしたりしている.今後,アユムが大きくなるにつれ,勉強するアイのすがたをそばでみて,ことばや数を自主的に学んでいくことが予想できる.さらに,アイとアユムが,学んだ知識を利用して,お互いにコミュニケーションする可能性も考えられる.アイとアユムの毎日の生活を丹念に観察しつづけていきたい.

 この観察記録をもとに,今月号から毎号の予定で,この欄でアイの育児とアユムの成長を継続的に紹介していくことになった.なお,アイとアユムの毎日は,“アイの育児日誌”として,京都大学霊長類研究所のホームページにて公開されている(アイのホームページ,“http://www.pri.kyoto-u.ac.jp/ai”).毎日更新されているので,ぜひ一度目を通していただきたい.

明和政子(京都大学霊長類研究所) 

*無断転載を禁じます(岩波書店‘科学’編集部:kagaku@iwanami.co.jp).

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