アユムが歩んだ1カ月
 ―アイの子育て日誌(第2回)

 アユムが生まれて1カ月がすぎた.母乳を飲む回数も時間も増加し,体もひとまわり大きくなったようだ.瞳の色も,生まれたときの膜がかかったような薄いグレーから,アイと同じ茶色に変わった.アイの子育ての上達ぶりにも目をみはるものがある.アユムが少しでもぐずると,アイはアユムの顔を覗き込み,揺すってあやすようになった.また,アユムが母乳を飲んでいるときに咳き込むと,アイはアユムの後頭部をやさしく叩く場面も観察された.最近,研究所のスタッフが“アユムー”と声をかけると,アイはアユムを見下ろすようになった.わが子が,周囲のヒトに“アユム”と呼ばれていることを理解し始めたようだ(図1).

  図1 アユムをやさしく抱き,みつめるアイ(図2とも読売新聞社提供).ヒトの新生児と同様,チンパンジーの新生児も,自分だけで身体を支えたり,移動したり,母親にしがみついていることができない.つねに母親の支えが必要となる.

 研究所では,アユムの発達研究が本格的にスタートした.午前と午後の各1時間,アイはアユムをつれて勉強部屋に入る.研究者がその部屋に入室することを,出産前と変わらず,アイは拒まなかった.アユムに接することも,アイは許してくれた.

 アイの協力のおかげで,新生児期のチンパンジーの能力を,チンパンジーの母親同伴で調べることができるのだ.たとえば“新生児模倣”の研究があげられる.大人が舌を出したり,口を大きく開けたりといった表情をヒトの新生児にみせると,新生児も同じ表情を模倣することが知られている.

 このような能力がチンパンジーにも備わっているかどうかを調べるため,ヒトと同様の手続きを用いて,アユムに舌出しや口の開閉の表情をみせた.アユムは,研究者の顔をじっとみて,同じ表情をした(図2).こうした日々の研究の積み重ねによって,チンパンジーの発達研究が着実に進んでいる.

  図2 新生児模倣の実験風景.生まれながらにして,ヒトの新生児は大人の表情を模倣することができる.アイに抱かれているアユムに対して,研究者が口を開けてみせると,アユムも口を開けた.

 アイ母子がチンパンジーの群れに復帰したことで,アユムと他のチンパンジー仲間との対面も開始された.この小さな新入りに危害を加えようとした者は誰もいなかった.アユムを初めてみたときの仲間のようすはさまざまだった.たとえば,ペンデーサ(出産経験のない23歳の女性)は,アユムに触りたくてしかたがなかった.何とかアユムをみようと覗き込むのだが,アユムを胸にかかえたままアイはペンデーサに背を向ける.また,アユムに手を差し伸べるのだが,アイはその手を取って,アユムから遠ざけようとする.アイはアユムを仲間に触らせようとしない.アイは1カ月ぶりの仲間との対面をうれしく思っているのだろうが,一方で,仲間のアユムへの対応には多少不安を抱えているようだ.

 アユムとアイが離れた日が1日だけあった.アユムの“1カ月検診”である.5月25日午前,アイに麻酔をかけ,その間にアユムを借りた.アイが麻酔から醒める前に,アユムをアイに返す計画だった.そうすれば,アイはアユムがいないことに気づかないで済むからだ.スタッフの協力によって,血液採取,レントゲン撮影,身体計測,顔の認識(顔らしい図形とそうでない図形を認識できるか)や匂いの認識(母親の匂いと他のチンパンジーの匂いを認識できるか)に関する心理実験が迅速におこなわれた.この日はアユムにとってもたいへんな1日だったのだろう.

 検診が終わったあと,まだ眠っているアイの胸にアユムを返すと,アユムはすぐに母乳を飲みはじめ,その後ぐっすりと眠りについた.アユムの体重は2330g,身長約50cmで,身体的異常は認められなかった.アイの麻酔も1時間ほどで打ち切り,無事に“1カ月検診”を終えることができた.

 アイが目覚めるまでの時間は,これまでアイ母子を見守ってきたスタッフが,初めてアユムに触れることのできた貴重な機会でもあった.皆が暖かいまなざしをアユムに向け,声をかけ,触れる.私もアユムを初めて抱いた.アイに抱かれているアユムはとても小さくみえたのだが,私の胸の中にいるアユムは,とても大きく感じられる.アユムの頬にそっと顔を近づけてみた.アユムはアイと同じ匂いがした.

明和政子(京都大学霊長類研究所) 

*無断転載を禁じます(岩波書店‘科学’編集部:kagaku@iwanami.co.jp).

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