ウィトゲンシュタインは,こういう言語ゲームの考え方を使えば,ことばの意味について哲学的誤解に陥らなくてすむと考えました.ウィトゲンシュタイン自身が挙げている典型的なケースを考えてみますね.彼が晩年に出版した『哲学探究』という本の中では,最初に赤いリンゴを5つ買う場合を考えています.その場合,ウィトゲンシュタインはずいぶん原始的なケースを想定しています.紙に,「赤」と「リンゴ」と「5」という文字が書いてあって,この紙を八百屋に渡します.そこには,リンゴの箱とかミカンの箱とかメロンの箱とかがあって,八百屋は紙を見て,「リンゴ」と書いてある箱を開けます.次に,八百屋は一覧表をもっていて,左の欄には「赤」とか「緑」とか「黄」といった文字が書いてあって,右の欄にはそれぞれの文字に対応した色が塗ってある.こういう対応表をもっていて,紙の「赤」という文字を右にたどって,赤の色見本を見て,それとリンゴを照らし合わせて,同じ色のリンゴを選び取る.さらに,この八百屋は数の数え方を暗記していて,1,2,3,4,5,6,7,8,9,10と順番に数を言うことができます.それで,「赤」「リンゴ」という条件に合うものを箱の中から取るたびに「1」「2」「3」と数えていく.「5」まで数えたところで相手に渡す.こういう言語ゲームを考えることができます.
 こういうゲームを考えてもつまらないことのように思えますよね.でも,哲学的に考えるとこの中にはいろんな要素が含まれています.たとえば,赤色とは何かという問題は,哲学ではすごく難しく考えるんです.「「赤色」の意味を言ってみろ」と言われたら,簡単には答えることができません.5とは何かという問題も同じです.「5」ということばの意味は何かと問われたら,答えるのは非常に難しいです.哲学者の中には,「赤」とか「5」といったことばに対応する実在があって,「赤」や「5」ということばは,この実在と対応することによって,特定の意味をもつことができるんだと考える人もいます.そういう赤それ自体とか5それ自体といったものは,感覚を超えています.目で見たり手で触ったりできませんよね.だから,プラトンのイデアみたいなものと考えるしかなくなるんですね.でも,こういうものがあると考えないと,意味がどこからくるのか,説明がつかない.それで,記号とかことばは,こういう実在と何らかの関係を結ぶことによって意味を帯びることができると考えられることになります.記号というのはたんなる模様ではなくて,意味をもたないと「記号」とは呼べません.その意味は,記号に対応する実在と対応づけられることによって生じるんだと考えたりするんですね.
 こういう考え方はバカげていると思いますか? たとえば,「バラミラは大きい」と言ったとしますよね.だれかが,「バラミラって何なんだ」と聞いたとして,「バラミラっていうものは存在していないんだよ」と答えたらヘンですよね.バラミラというものが存在しなかったら,「バラミラ」という語が意味をもつということはありえないですね.バラミラの代わりに「奈良の大仏は大きい」と言えば,意味をもっています.それはなぜかというと,「奈良の大仏」という記号に対応するものが存在しているからです.「バラミラ」というのは,ぼくがいま作った名前なんですけど,これに対応するものが存在しなかったら,意味をもつことはありえないですよね.意味をもつことがなければ,「バラミラは大きい」と言おうが「バラミラは50歳だ」と言おうが,意味をなす文章は作れないということになります.こういう例から考えると,ことばが意味をもつためには,それに対応する対象が存在していなくてはいけないと考えられるような気がします.そう思いませんか?
 でも,ことばに対応するものが存在する必要はないと思う人がいるかもしれませんね.たとえば「モーセはエジプトで生まれた」と言ったとします.モーセが実際に存在したかどうかはわかっていません.聖書にはモーセのことが書いてあるけれども,実在したかどうかはわからないんです.でも,ぼくらは「モーセはエジプトで生まれた」という文章を理解することができますよね.でも,実際に調べてみたらモーセが実在しなかったということが明らかになることは十分にありうるわけです.モーセが実在しなかったら意味をもてない,ということなら,モーセが実在するかどうか判明するまでは,「モーセはエジプトで生まれた」という文が意味をもつかどうかわからないということになってしまいます.もっと極端な例を出すと,「シャーロック・ホームズはベーカー街に住んでいた」という文章は意味をもっていますよね.「バラミラはベーカー街に住んでいた」って言っても意味がないですけど,シャーロック・ホームズだと意味があります.でも,シャーロック・ホームズは存在していないんですよね.実在する人物ではありません.でも,「シャーロック・ホームズ」という言葉は意味をもっていますよね.
 さっきは,バラミラは存在しないから「バラミラ」ということばは意味をもつことができないと言いました.じゃあ,シャーロック・ホームズの場合はどうなのか.「シャーロック・ホームズ」に対応する対象は存在しないんだけれども,これは意味をもっているじゃないか,と思えますよね.どっちも対応する対象が存在していないのに,一方は意味がなくて,一方は意味があるわけですね.そこで,どう考えるかというと,ひとつの考え方として,「シャーロック・ホームズ」には対応する対象がどこかになんらかの形で存在しているんだ,実在するわけではないんだけれども,どこかに存在するんだと考える立場がありえます.哲学者はそういうときにいろんなことばを作りますから,たとえば「虚構界」っていう世界の中にシャーロック・ホームズは存在している,だから意味をもつんだけど,バラミラはその世界にも存在していないから意味をもたないんだと考えたりすることになります.
 こういう考え方の根本にあるのは,「ことばが意味をもつには,それに対応する対象が存在しなくてはならない」という考え方です.現に「バラミラ」が意味をもたないのは,これに対応する対象が存在していないからだし,それに対して,「シャーロック・ホームズ」は,対応する対象は実在はしていないけれども,何らかの意味で存在しているんだと考えれば,ことばが意味をもつには対応する対象が存在しなくてはならないという前提を守ることができます.だから,根本的には,ことばの意味は,対応する対象が存在するということによって初めて意味が生じるんだと考えられますよね.こう考えると,「赤」や「5」や「リンゴ」ということばが意味をもつためには,これに対応する対象がどこかになければいけないと考えたくなるわけです.そうすると,「赤」に対応する対象がどこかにあるはずだ,と.赤いリンゴとか赤い頬とかではなく,赤そのものというものがどこかの世界に存在しているはずだし,「5」に対応するものもどこかに存在しているはずだ.われわれの目には見えなくても,とにかく存在しているはずだ,そうでないと,こういうことばは意味をもつことができない.こういう考え方が出てきてもおかしくはないですよね.
 こういう考え方に対して,ウィトゲンシュタインが八百屋の例で示そうとしたことは,実際に「赤」ということばが意味をもつとはどういうことか,どういう意味をもっているかということです.「赤」ということばを使って何が起こっているのかというと,八百屋が「赤」という記号を見て,その隣にある色見本と同じ色をもったものを選び取ります.だから,色見本と照らし合わせるという手続きを「赤」ということばは含んでいるわけです.もちろんふつうの八百屋だったら色見本を使う必要はありませんよね.でも,難しい名前の色だったとします.たとえば,インテリアの店に新しく入ったバイトに,「ツイスターグリーンの壁紙を2メートル×1メートル」と書いた紙を渡したとします.ツイスターグリーンという色は,さっき調べてきたんですけど,実在する色です.でも,緑色の中でも非常に特殊な緑色です.ふつうの場合,こういう色は色見本がないと,ツイスターグリーンかどうかは判定できませんよね.慣れていくと色見本なしにツイスターグリーンかどうか判定することができるかもしれないですけど,少なくともいまのぼくらには,色見本を使う必要がありますよね.バイトで入ったばかりの店員だったら,色見本と照合しなくてはいけませんね.赤の場合も,ふつうの大人は見本と照合しなくてもいいところまで慣れていますけど,最初は色見本と照合する必要があったんだと思います.だから,基本的には,色見本と照合するということが「赤」という記号の中に含まれている手続きです.それから,「リンゴ」ということばは,どの箱から取り出すかということを指示しています.「5」という記号は,何かと照合するわけではありません.たんに,1,2,3,4,5と数えられるようにしておいて,1,2……と数えるたびにひとつずつ取っていく操作をすることを指示しています.実際の八百屋も,これとほぼ同じことをやっているんですよね.たとえば,こういうことを紙に書いていなくてもかまわないんです.口で,「赤いリンゴを5つください」と言ってもかまわないし,「赤いリンゴを5つ」と言ってもいい.それを八百屋が理解するとはどういうことかと言うと,色見本と照合したり数を数えたりして,赤いリンゴを5つ相手に渡すということなんですよね.だから,この八百屋の場合は,喫茶店で「コーヒー」ということばを使うよりもずっと複雑な言語ゲームになっています.