祖父江慎ブックデザイン 心

編集者からのメッセージ/祖父江慎さんインタビュー/プロフィール


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岩波書店 漱石プロジェクト@IwanamiSoseki


■ 編集者からのメッセージ

 ずっと憧れていたブックデザイナーの祖父江慎さんが,漱石にとんでもなく詳しいということを知ったのは,今から10年前のことになります.雑誌『d/SIGN』8号(太田出版,2004年)に祖父江さんが書かれた「原寸!「坊っちやん」本文組100年」を読んだことがきっかけでした.
 祖父江さんのクリエイティビティの背景には,文字組の歴史的変遷に関する膨大な研究があること,その座標軸に漱石の本があることを知り,私の中で,「祖父江×漱石×岩波」という組み合わせの本を読んでみたいという夢が芽生えました.その夢を膨らませ,『心』の特装版というかたちで具体化し,祖父江さんにお願いしたのが2年前のこと.そして,岩波書店が『心』を最初に刊行してから100年となる2014年,夢がようやく実現しようとしています.
 本づくりは,「やはり祖父江さんにお願いしてよかった!」という,感激と驚きとともに進んでいます.たとえば,函や表紙,背の書名.漱石が自ら装丁した初版では,「心」「こゝろ」など,いろいろな表記や字体が入り混じっています.その“心”揺れる『心』であることを生かし,祖父江さんはプランを作ってこられました.
 細部まで緻密に考え抜き,しかし意図に縛られることなく,感性をかたちにしていく祖父江さんのデザイン.掛け値なしに素敵な,ときめく本ができつつあります! データで読むことが普及しつつある今,真正面から,「本」とは何かを問い,「本」の可能性を示す一冊でもあります.本を愛する多くの人たちに,ぜひ,触れて,開いていただきたい.そう“心”から願っています.
(2014年7月)


■ 現代の漱石本を作る――祖父江慎さんインタビュー

漱石と僕
 漱石との出会いは中学生のときです.お小遣いで買った3冊めくらいの文庫が『吾輩は猫である』でした.当時の僕は本を読むのがすごく苦手だったんです.読んでても文字の形が気になってしまい,なかなか頭に入らない.で,なんとかそれを克服しようと近所の小さな本屋さんで『吾輩は猫である』を買ったんですよ.レジに座っていたおばあゃんに「ぼく,分厚いのを読むね.えらいねぇ」ってほめられたんで.でもページが多すぎて,出だしだけしか読んでなかったんです.次にその書店に行ったとき「もう読んじゃったの? えらいねぇ」って言われて困ってしまいました.どこまで読んだのかわからなくなるたびに繰り返し頭から読んでたから,出だしだけは空で言えるようになってましたよ.
 仕事場が『坊っちゃん』だらけになっちゃったのは,10年くらい前からです.
 『坊っちゃん』が書かれてから,100年ちょっと経つんですが,いまだに多くの出版社から出版され続けています.内容は同じでも,時代によって本の体裁や書体が少しずつ変わっていく.出版社によって,約物・記号の入り方や文末・文頭のあけ方が違うし,時代や想定読者の違いによっても漢字やルビの付き方,書体が違っています.『坊っちゃん』の手書き原稿中にある「二字アケル」「一字アキ」などの独特な指定についての解釈もさまざまです.原稿指定通りに組むとどうも脱字とかの組み間違いに見えてしまうので,今はほとんどの出版社でその指定を無視したような組み方になってます.そんなふうに原稿指示をながめていると,漱石自身,文章の組まれ方も意識していた気がするんです.
 ……そういったことのすべてが面白くて,『坊っちゃん』集めにハマっちゃったんですよ.文庫本もちょっとずつ組み方が変わるので,どこで変わったのかを調べてるうちにどんどん増えてしまいました.気がつけば『坊っちゃん』の書籍・文庫は500冊以上,コミック化された『坊っちゃん』や『坊っちゃん』批評や関連本を合わせれば1000冊以上.結果,本棚三竿でも収まらない量になっちゃいました.
 『坊っちゃん』比べをしていたら,イメージが盛り上がってきて漱石の本を作りたくなってしまって.もし出版できたなら岩波書店さんからがベストだな.でも,ありえないだろうな,ありかもな,なんて考えてたんです.ちょうどそんなときに岩波書店さんから依頼のお手紙をいただいて,びっくりしちゃいました.いよいよ夢が叶いそうです.

へそ曲がりの漱石
 夏目金之助のペンネーム「漱石」の名前の由来は,中国の『世説新語』にある「漱石枕流(そうせきちんりゅう)」からきてるんですってね.
 どんな話かっていうと,「山で石を枕に,川の流れで口を漱(すす)ぐような生活をしたい(枕石漱流)」って言うべきところ,間違って「石で口をすすぎ,川の流れを枕にしたい(漱石枕流)」って言っちゃった,と.でも言い間違ったことを認めずに「流れを枕にして世の中のつまんない話で汚れた耳を洗って,石で口をすすぐのは世の中のまずいものを食べた歯を磨きたいからだ」って,無理矢理ごまかした,っていう故事.これが由来だそうです.
 名前からしてへそ曲がりで,僕は漱石,大好きです.だから今回(特装版『心』),著者名は「夏目漱石」じゃなくて,当時つかっていたまま名字の無い「漱石」だけでいきたいと思ってます.名前の由来のように,間違ってたとしても,ぜんぜん平気な精神でいきたいです.

心落ち着かない『心』
 新しくデザインさせていただく作品タイトルは,漱石が「序」の原稿で書いたのと同じく,漢字の「心」でいきたいと思います.
 漱石が,予算の都合もあって初めて自装したといわれているこの本には,いろんな表記でのタイトルが並んでるんです.函の背表紙には漢字の「心」,本表紙の背にはひらがなで「こゝろ」です.
 また,函の平部分には,手の横に棒があるような甲骨文字のような字で書かれていて,本表紙の表1の平部には康煕字典から「心」の意味の写しが書かれています.
 巻頭口絵には漱石の描いた絵とともに小篆文字で「心」,小説の初めにはまたひらがなで「こゝろ」.
 さらに,本をめくり最初の見返し裏には「学は長く,人生は短い……」というヒポクラテスの格言がラテン文字で書かれ,本表紙の地には中国最古の石刻文字といわれる石鼓文の大篆書体が並んでいます.しかも原文とは文字の並びが違って配置されています.
 まさに迷子になった文字たちが大混乱をきたしているようです.
 しかも,本のタイトルは『心』なのに,内容はといえば新聞で連載された「先生の遺書」という作品.
 ……もう入り口から「心」の迷子になってしまいそうです.表記の落ち着かなさもこの作品の特徴だと思っています.
 もともと日本には,「揃えない」という美意識があったようで,とくに江戸期の本は中の作品タイトルと外に出るタイトルとが揃ってるものって少なかったそうです.同じタイトルのシリーズの本でも,巻によって表記を変えたりもしていた.読めば同じ音にはなるけど,真仮名や変体仮名を駆使することで表記が揃うことを避けたりもしていたようですね.この揃えない意識って,俳句を書くときの流儀からきているのかもしれませんね.
 今では,揃っていない表記は間違いだとされ,揃えることが普通になっているけれど,当時は揃えないことが粋だったんですね.

特装版『心』,大きさや形
 読みやすく携帯しやすいのがいいですね.明治後期に流行った袖珍本サイズくらいなら持ち運びやすいです.ポイントは片手でページがめくれるような,しなやかさかも.用紙もしなやかなのがいいですね.
 綴じ方は,糸かがりが似合いそうです.赤い糸でつなぐかな?
 素材は,質素がいい.質素だけどきちんと.
 漱石の作品ってそれぞれの物語がいろいろな方向に開かれていて,話がまだ続いてゆくような印象があるんです.でも,「心」だけは違っていて,なんというか,閉じてるような印象があります.函も似合いそうですね.

特装版『心』,外回りのデザイン
 岩波書店さんには,漱石が描いた原画が保管されていたんですね! 表紙用の石鼓文は原画からスキャンし直して使わせてください,見返しの絵は,筆のタッチもリアルに残しましょう,と提案しました.また,口絵用の絵はいくつか描かれたようですが,今回は今までに使われることのなかった,つたないタッチの絵でいきたいと思ってます.
 でも,真面目になりすぎるのは禁物ですね.デザインの精神は,尊敬する橋口五葉でいきたいと思います.五葉の装丁した『吾輩ハ猫デアル』は最高傑作です.最初の3冊シリーズ単行本は,表紙の長さが寸足らずなので本文が飛び出しているんですが,次につくった全1冊の袖珍本は,逆に表紙が長すぎて本文を覆ってるんですよ.漱石も敬愛していた橋口五葉は,日本を代表するブックデザイナーですね.遊び方もただごとじゃないんです.……そこ,がんばります!

特装版『心』,本文
 漱石の文章には独特な漢字表記が含まれてます.『吾輩は猫である』では「でたらめ」を「出鱈目」と当て字したり,数字が頻出する数学教師の『坊っちゃん』では,「むづかしい」を「六づかしい」としたり…….
 たとえば『心』の文中にある「神経を悩まさなければならなかった」は,手書き原稿では「神経を脳(なや)まさなければならなかった」と書かれてます.原稿では「悩」が「脳」になってるんですが,わざわざルビまでふられてます.これが意図的なものなのかどうなのかは,今となってはわかりませんが.
 そこで! いっそ,間違いを正そうと判断することはやめ,今回の『心』は,「無編集・無校閲」で進めてみるという方針を提案させていただきました.本当の間違いかもしれないところも,狙いの間違いかもしれないところも手を加えないで,原稿のままでいっちゃいます.
 これは,岩波書店さんだからこそできることだと思っています.実際,今では間違いとされる表記をそのまま活かすことほど勇気のいることは,ないはずです.
 また,原稿を書いているときの漱石の呼吸や,テキストのもつリズムも最低限,活かしていきたいと思っています.そこで,漢字については現代に準じた表記に変えさせていただきました.ルビも漱石がふったものにだけ付けます.
 ちょっとした事件のような,今回の『心』,楽しみに待っててくださいね.
(2014年7月23日)


■ プロフィール

祖父江 慎(そぶえ しん)
1959年,愛知県生まれ.有限会社コズフィッシュ代表,ブックデザイナー.文字組設計・書体に興味を抱き,各時代・各出版社の夏目漱石『坊っちゃん』文字組みの変遷を研究中.そのため事務所の本棚には新旧500冊以上の『坊っちゃん』本が並ぶ.講談社出版文化賞・ブックデザイン部門(1997年), 造本装幀コンクール文部科学大臣賞(2004年)などを受賞.これまでの仕事をまとめた『祖父江慎+コズフィッシュ』(ピエ・ブックス)を準備中.
Twitterアカウント:@sobsin




大正三年(1914),朝日新聞での連載終了から一月余りした9月20日に岩波書店から単行本として刊行されたこの本は,自序に「ふとした動機から自分で遣つて見る気になつて,……悉く自分で考案して自分で描いた」とあるように,漱石にとっても自ら装丁した格別な一冊となりました.刊行百年を記念して初版本を復刻.




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