2005年 第3号

哲学者と弁論家と――ペトラルカとセネカをめぐって

近藤恒一

 ルネサンスのユマニスム(人文主義)が広義の文学分野における「再生」と革新の運動であったことはいまさらいうまでもなかろう。 この運動の進展とともにプラトンが再生し、ホメロスがよみがえり、さらにルクレティウスやエピクロスの快楽説、新プラトン主義、懐疑主義などにも新しい光があてられた。 のみならず、一二世紀以来大学文化圏で最高権威だったアリストテレスも、また中世期に読まれていたラテン古典作家や教父文学も、それまでとは異なる関心と方法によって熱心に読みなおされる。

 この運動の「真の父」は一四世紀のフランチェスコ・ペトラルカであった。 偉大な詩人でもあったこのユマニスト(人文主義者)は、同時代と同時代人に失望して古代にあこがれ、古代人との交わりを愛し、古代人宛に多くの手紙をしたためた。

 「フランチェスコがアンナエウス・セネカに挨拶をおくります」。 このように始まる手紙は、一三〇〇年の時間的へだたりをこえて親しくセネカに語りかけている(『親近書簡集』第二四巻五)。 ペトラルカによれば、多彩な著作家キケロはとくに弁論家として偉大で「ラテンの雄弁の最高の父」(同書第二四巻四)、そしてセネカは、もっともすぐれた道徳哲学者であった(同書第四巻一五)。

 ペトラルカのセネカ評価やセネカ宛書簡も示すように、ルネサンスにおけるセネカの「再生」も、ストア派にたいする関心のたかまりも、やはりペトラルカに負うところが大きいであろう。 多様な顔をもつこの詩人ユマニストをストア思想家として読む傾向もあったようで、一七世紀フランスでは『運命にたいして毅然たる賢者、すなわちペトラルカ』という書物も出て、たびたび版をかさねた。 この書はペトラルカの『順逆両境への対処法』その他の自由訳であるが、その訳者はいう。 「ペトラルカの著作は、いかにかれがストア派をキリスト教のうちに再生させたか、あるいはいかにかれがストア派に取ってかわったかを示してくれる」。 この翻訳がなされたのは、訳者が国事犯としてバスティーユ牢獄に幽閉されていたときである。 「私にたいして拷問の武器が準備されていたとき私にほほえみを与えてくれたのはペトラルカであった」(ガレン『ルネサンスの教育』知泉書館、註七七頁)。

 ペトラルカの著作にセネカやストア思想の影響をみつけるのはやさしい。 不断の戦火や飢餓やペストの猛威にさいなまれた悲惨で不安な時代にあって、ペトラルカの精神的支柱はキリスト教信仰とストア思想だったようにおもわれる。 かれはストア思想によって精神的に武装するばかりか、たびたび友人たちを励ました。 あるとき友に書いている。 「あなたもまた全世界のうちに安らぎと慰めの場所を見いだせなければ、あなたの居間の内がわへ、あなた自身の内へと還ってください。 ……あなたの魂のただなかに、あなたの住居をつくってください。 そしてそこにひそみ、そこで喜びをあじわい、そこで何ものにも妨げられずに安らってください」(『親近書簡集』第一五巻七)。

 このように自己自身の「徳」に拠って自己の内部で安らうこと。 これこそペトラルカの熱愛する「孤独」である。 「孤独は、完全に幸福であり安らかであって、いわば堅固な砦、あらゆる嵐にたいする港なのです」(『孤独生活論』第一巻四)。


 ペトラルカがセネカの著作を愛好したのは、かれ自身の作品観にも根ざしていた。 ペトラルカによれば作品は、その作者の分身であり、作者自身でもある。 作品を読むとは、作者と対話し、交わりを深めることにほかならない。 だから、作者の思想や人間性がいきいきと具体的に表現されているような作品がとくに好まれる。 セネカの道徳書簡集は、そのような作品の典型と思われたのである。

 したがって、ペトラルカがセネカを最高級の道徳哲学者とみなすのは、セネカのストア思想のためばかりではない。 なによりもセネカの作品にそなわる「雄弁」のためである。 ペトラルカはアリストテレスの倫理学書を読んだときの体験を、つぎのように語っている。

 「たしかにアリストテレスは、徳をみごとに定義し分類し、悪徳や徳のあらゆる特質を鋭く論じています。 ……しかし、徳を愛し悪徳を憎むよう、ひとの心を駆りたてたり燃えたたせたりする、ことばの力や炎が、かれの論述には欠けています。 あるいは、ごくわずかしかそなわっていません。 ……だがラテン作家たちは……きわめて鋭い燃えるような感動的なことばを、心の奥ふかくそそぎこみ、きざみつけます。 それにより、怠け者は駆りたてられ、消沈せる者は燃えたたされ、居眠る者は呼びさまされ、虚弱な者は強められ、打ちのめされた者は立ちあがらされます」(『自他の無知』)。

 むろんペトラルカは、アリストテレスのギリシア語文体が甘美豊麗で美しいものだというキケロその他の証言を知っていた(同前)。 だから、ラテン語訳アリストテレスの生硬な文体は、翻訳者たちの稚拙さのせいだろうとも考える(同前)。 にもかかわらず、道徳哲学分野におけるキケロやセネカの優位がゆらぐことはなかった。 哲学史家の常識に反するこのような評価は、じつは哲学観のちがいに起因していた。ペトラルカはいう。

 「魂の世話は哲学者をもとめ、ことばの世話は弁論家に固有の仕事です。 そこで……どちらの世話もなおざりにできません」(『親近書簡集』第一巻九)。

 ここでは、哲学と修辞学(弁論・修辞術)との統一、より主体的には哲学者と弁論家との統一、という立場が言明されている。 これは哲学と「雄弁」との統一とも言えよう。 このような立場からペトラルカは、キケロやセネカを高く評価し、道徳哲学者としてはアリストテレスにまさるという。 このようなアリストテレス評価は、時流のアリストテレス派(後期スコラのアリストテレス派)にたいする一種の批判でもあった。 ペトラルカのアリストテレス派批判は、おもに弁証術(論理学)の多用・濫用にむけられていた。 詩人はいう。

 「わたしはなによりも哲学を愛します。 しかしわたしの愛しているのは、わが学者どもがこっけいにも自慢のたねにしているあのスコラ流の空虚なおしゃべりの哲学ではなく、真の哲学なのです。 たんに書物のうちにばかりか魂のうちに住みついている哲学、ことばにではなく事実にもとづいている哲学なのです」(『親近書簡集』第一二巻三)。

 このように、ペトラルカの「雄弁」尊重や修辞学の重視は、かれの鋭敏な事実感覚と結びついていて、哲学を魂のうちに住みつかせよう、真に人間形成や生の形成に役だたせようとする切望に根ざしていたのである。 それゆえペトラルカのいう「雄弁」は、たんなる能弁や言語表現の洗練を意味するものではない。 さきのスコラ学者批判も示唆しているように、事実や現実の尊重なしに「雄弁」はありえない。 かれがとくに重んじたのは、自己の「生」に密着した哲学的探究なのである。 すでにセネカも、現実の具体的状況において直面する切実な自他の問題に即して哲学的考察をしようとした。 これはモンテーニュをはじめとするフランス・モラリストにもみられる傾向である。 かれらは、具体的な個別的人間(とくに自己自身)や個別具体的な問題の考察をつうじて普遍的認識に至ろうとする。 その探究方法は、個別において普遍を表現しようとする詩や小説の手法に通じるところがあろう。 ――哲学と修辞学との統一。 これを現代のわれわれになじみやすく表現すれば、哲学と文学との統一であろうか。

 だが古代ギリシアのプラトンやアリストテレス以来、哲学的伝統の主流は弁証術(論理学)と深く結びついてきた。 それゆえ弁論術(修辞学)との結びつきが強いキケロやセネカは、ふつう「哲学史」においては傍流に置かれてきた。 ルネサンス哲学史の記述においても、プラトン主義やアリストテレス主義とはちがって、キケロやセネカを含むストア派の影響に一章か一節がそっくり当てられることはない。 しかしストアの思想家(といってもローマのストア思想家)はよく読まれ、ストア思想はいわば地下水脈のように、ルネサンス期から近世初期という激動の時代をつうじて多くの知識人に精神的糧をあたえてきたようにおもわれる。 ペトラルカ、モンテーニュ、デカルト、スピノザの名をあげるだけでも充分であろう。


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