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2009年 第5号 | |
鶴見俊輔
一
思想というとき、それをいだく態度が問われる。態度をかっこに入れて、その人のもつ知識の多少、高低を問うのでは足りない。このことを、八七年生きてきて、私は感じる。はじめてから六三年になる『思想の科学』についても、おなじことを問いたい。
雑誌『思想の科学』は、七人の同人ではじめた。その仲間は、一九四五年八月一五日より前の戦争の時代にお互いに知っていた。仲立ちをつとめたのは、鶴見和子(私の姉)である。
一九三一年にはじまる中国と日本国との戦争がいやだと感じるのは、七人の共通の態度だった。それは一九四一年からは、米国と日本の戦争がいやだという感情の中に含まれてしまうが、それを共通のきずなとして雑誌をつくる提案をしたのは、和子だった。
和子と私とは、一九四二年八月二〇日に日米交換船で日本に帰ってきた。
和子は、徴兵検査を受けない。日本に帰ってから日米戦争の終わるまでの三年間に彼女は、この戦争を支持していない人が日本にいることをたしかめた。米国留学中からつきあいのあった都留重人、武田清子、鶴見和子、私、それに丸山眞男、武谷三男、渡辺慧を加えた七人が、『思想の科学』創刊の同人となった。思想の科学研究会は、今は一〇〇人を越えるサークル連合である。
七人のうち二人が女というのは、世界の哲学雑誌としてめずらしい。その性格は、今もいくらかは保たれている。というのは、和子が自分の借りていた部屋で敗戦後に続けた集まり「主婦の生活綴り方運動」の仲間になった女の人びとが、『思想の科学』を一時『芽』と改題して続けていた時代に、書き手として登場したからである(加生冨美子、黒須つる子。一九五三年八月号)。
一九四九年、京都人文学園発足のころ私と近づきのあった駒尺喜美は、東京に移って主婦の生活綴り方の仲間に入り、五〇年にあまる生活的学風を保って、大正・昭和の時代にあきらかにされていなかった女性の同性愛が吉屋信子の支えによっていたことにふれた(「吉屋信子 ― 女たちのまなざし」一九七五年九月号)。
転向の共同研究には、一九五四年以来八年間の仲間の中に石井紀子、西崎京子、横山貞子がいたが、女性の転向と取り組むことはなかった。氏名の明らかな公人の他に大衆の転向を取りあげるという問題提起はすでに一九五三年六月七月合併号の『芽』に、「集団のかげの転向」として、H・Kによって投書されている。筆者は当時二三歳の加藤秀俊である。この延長線で女性の転向は扱われる方向にあったが、この未確認の大陸に鍬入れされることはなかった。一つの失点である。
その後、牧瀬菊枝が共産党の担い手のハウスキーパーに光をあてて「田中ウタ」を書き、また、共産党リンチ事件当時の熊沢光子についてすぐれた伝記『幻の塔』を書いた山下智恵子が、やがて思想の科学研究会に入った。こうして日本の左翼について男性筆者の描くことのなかった側面があきらかになった。
二
共同研究「転向」は、八年続いた。若い仲間がそれぞれ自分の中に戦争後期の記憶を取り戻し、研究の自発的な動機とした。先にあげた女性に加えて、しまね・きよし、高畠通敏、山領健二、後藤宏行、魚津郁夫、佐貫惣悦、仁科悟郎、原芳男、中内敏夫、大野明男。また、より年長のメンバーとして秋山清、判沢弘、橋川文三、鶴見俊輔、藤田省三、白鳥邦夫、今枝義雄、大野力、松沢弘陽がいた。
年少のメンバーに、すでに戦後体験としての転向がきざまれているのは重大なことである。それは学童疎開と結びつく。
「戦争が生んだ子供たち」(一九五九年八月号)で自分たちの学童疎開を記録した柴田道子は、やがて『谷間の底から』(東都書房、一九五九年)を書き、共立女子大の学生として羽田闘争に加わった。彼女はその道から離れることなく、夫の長野への転勤を奇貨として、未解放部落の伝承について本(『被差別部落の伝承と生活』三一書房、一九七二年)を書いた。また、狭山裁判の証拠調べに応じた。この時の実験が原因となって亡くなった。
朝鮮戦争後の日本社会のかわりようは、執筆者層と読者層から雑誌『思想の科学』に流れこんで、この雑誌に質の変化をもたらした。富永健一「現代産業社会の構造的把握の問題」(上・下)によって敗戦後の一九五五年以後、農業から工業とサービス業へ人口の大転換があることが指摘され、一九六〇年の安保闘争には大野力「ビルの内側から」で、政治面での観測がなされた。
企業内部で戦後をすごした折原脩三と岡田昭三は、二足のわらじをはいて同時に思想の科学研究会員となり、定年退職後はそれぞれ長く会社員として構想を温めてきた大作を完成した。研究サークルをおなじくする若いメンバー伊藤益臣、栗山馨が、研究者としての折原・岡田の足跡を記念する仕事を発表した。
三
日本の思想研究が理想記述と現実描写にわかれるのは、明治・大正・昭和を通じて高校と大学での専門が、文科と理科と、互いに没交渉であったことに対応する。長年にわたる大戦の被害は、創刊同人の武谷三男が、はじめにこの雑誌を『科学評論』という題にしようとしたことで、科学技術の被害を受ける市民からの発言をのせてゆく方向をあわせもつ視野を示したものだった。それは実現したとは言えない。
市民と専門家の相互乗り入れは、市井三郎が記号論理学と弁証法の共同研究(これは『思想』に発表された)で主導し、やがて比較歴史記述として『歴史の進歩とはなにか』(岩波新書、一九七一年)にひとつの結実を見た。
市井三郎によれば、コンドルセ以来の歴史の進歩という考えは、自然科学の進歩のモデルとしては当てはまるが、自然科学を誘導する国家社会の動きを含めると、当てはまらない。ソヴィエト・ロシアの自然科学は、ソ連の公式哲学の記号論理学排除に反して、ひそかに西欧の記号論理学を導き入れて、人工衛星を打ち上げる宇宙工学を発達させた。同時に政府公認の哲学は、記号論理学および記号論、さらにまた言語学をブルジョワ観念論と見なすことをやめなかった。
ソ連と対照的に米国では、自然科学は、大企業や広告と結びつく。広く米国社会の進歩と自然科学が結びついて、両者ともに手を携えて進歩することが保証されているという、大衆信仰が成立する。このように米国社会にある自然科学への信仰は、自然科学の中で保証されている手順とは別のものである。
米ソ二つの国家社会に流布している科学信仰は、専門の手続きによって保証される自然科学とは別のモデルに属する、と市井三郎は論じる。
四
市井三郎は、自然科学者の指導下に市民を置くようにと論じた人ではない。
市井の指導下に進められた共同研究「明治維新」は、幕藩体制後期に、その社会の中から御一新への運動がいかにして起こったかを、彼が戦後の企業社会の内部にあって着想した「キーパーソン」という概念を応用して明らかにする機会としたものだった。
かねてから市井は、雑誌『思想の科学』に保守主義者が誘われていないことを不満としていた。それでは看板の多元主義が実行されていないではないか。右翼左翼が共に考える場でなければいけない。そこで、『神社日報』主筆の葦津珍彦を誘って、共に天皇制について考える場をつくり、さらに共同研究「明治維新」をはじめるときに、葦津だけでなく、西春彦、林竹二、竹内好を誘った。それが江戸時代に育まれる、そして明治にはじまったのではないものとして明治維新を考えるきっかけとなった。林竹二によれば、明治になって新しい人間の理念にめざめた人とちがう真骨頂が田中正造にある。このことを史伝として綿密に追い求めた力作で、戦後の田中正造復活の機縁をつくった。西春彦は、生麦事件だけでなく、船体修復に日本・ロシアの大工が協力してことにあたった
江戸時代の気風は、加太こうじと上野博正が研究会の中心を担うことによって、会にもちこまれたが、二人の死以後も、集団の気分として、「浮世床」、「浮世風呂」は持続している。これは言いかえればでたらめだとも言えよう。
態度が思想をつくるという仕方で影響をもったのは、秋田県能代の高校教師、「山脈」の主宰者の白鳥邦夫を通してで、「底辺を掘る」という彼の提案に応じて少年伐採夫として出発した野添憲治が、電気器具修理工の投書家として出発した佐藤忠男と並んで、力のある文章を書き続けている。日本文化の重大な遺産は村だ、と訴えた谷川雁が「サークル村」に中村きい子、森崎和江、石牟礼道子をさそったことは、『思想の科学』内部に今日も大きな影響として残っている。
『思想の科学』の多元主義は、創刊同人の一人、武谷三男が、戦前の雑誌『世界文化』と『土曜日』から受けついだもので、思想の科学研究会と雑誌の歴史を通じて除名がおこなわれたことがない、という事実によって、かろうじて今日まで双方に保たれている。