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「コミュニケーション能力がない」と悩むまえに

生きづらさを考える

コミュニケーションを個人の能力とみなすことから,現在の「生きづらさ」も生まれてくるのではないか.

「コミュニケーション能力がない」と悩むまえに
著者 貴戸 理恵
通し番号 806
ジャンル 書籍 > 岩波ブックレット
日本十進分類 > 社会科学
刊行日 2011/04/08
ISBN 9784002708065
Cコード 0336
体裁 A5 ・ 並製 ・ 64頁
在庫 品切れ
学校や就職,仕事など様々な場面で重視される「コミュニケーション能力」.しかし人と人の関係性や場に応じて変化するコミュニケーションを,個人の能力のように考えてよいのか.そこから現在の独特の「生きづらさ」も生まれてくるのではないか.自らの不登校体験もふまえ,問題を個人にも社会にも還元せずに丁寧に論じる.

■著者からのメッセージ



 この本は,「コミュニケーション能力」「社会性」を持つべし,とされることからくる「生きづらさ」を扱っています.この本をつくっているときに,東北・関東大震災が起きました.多くの人が命を失くし,家族や友人を奪われ,底知れない不安と哀しみのなか不自由な生活を強いられるさまが情報として飛び込んできました.
 アイデンティティ不安のような「生きづらさ」は,ある意味で,物質的な命の危険性や生活苦と隔絶したところでのみ,生じうる問題です.ふと昔話の「舌切りすずめ」を思い出しました.いなくなったすずめの行方を探すおじいさんに,「馬洗いどん」が言うのです.「馬の洗い汁,七桶飲まっしゃい」と.「すずめのお宿のありかを聞くなら,まずはこの私の過酷な現実を飲み干してから」と.一羽の小さなすずめを求めてはるばるやってきた旅人に,「馬洗いどん」はそう言わずにはおれないのです.
 不登校やひきこもりの「生きづらさ」について論じることは,すずめのお宿を探すようなものでしょうか.これらの問題は,「命の危険性がないところで生じている」という点で,確かに「豊かな社会の問題」であり,ある意味で「甘い」ものかもしれません.けれども,そこには「怠惰」や「甘え」には決して回収されない,固有の苦しみがあるのです.「人が生きるとは何か」という根源的な問題が孕まれているのです.
 私は,これらの問題に取り憑かれたひとりとして,「生きづらさ」へのアプローチをしていくしかありません.その際,刻みつけておきたいのは,そうした現実へのアプローチ自体が「甘く」なってしまうことは,避けなければならないということです.舌切りすずめのおじいさんは,「馬洗いどん」の無理難題に応えることで,「すずめのお宿を探す」という問題の切実さを示しました.七桶の馬の洗い汁を最後の一滴まで飲み干せるだけの思考を,紡いでいかねばならないでしょう.震災で亡くなられた方々に心からお悔やみを申し上げます.
(2011年3月24日)
1 「個人」と「社会」のあいだ
「関係性の個人化」が起きている/届かない社会要因論/「関係的な生きづらさ」

2 不登校からみる「関係的な生きづらさ」
「理由なく学校に行かない子ども」が問いかけるもの/長期欠席出現率の変化/むしろ「過剰」な社会性

3 なぜ「私たち」は「彼ら」を聞けないのか
「社会のせい」と「自己責任」のあいだ/「生きづらさ」をめぐる六つの語り/「関係的な生きづらさ」を理解する立場の不在/「自己選択・自己責任」という神話

4 「わたし」のポジションから考える
生きづらいのは誰か/「関係」で考えるメリット・デメリット/「選べない出会い」/「わたし」の話(「むずかしい子ども」/不登校のころ/不登校の「研究」へ/新米の「教師」「母親」として)

引用・参考文献
貴戸理恵(きど・りえ)
1978年生まれ.関西学院大学助教.社会学,教育社会学.
東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得済退学.
著書に,『不登校は終わらない――「選択」の物語から<当事者>の語りへ』(新曜社),『コドモであり続けるためのスキル』(「よりみちパン!セ」,理論社),『不登校,選んだわけじゃないんだぜ!』(同,常野雄次郎氏との共著),『自由への問い6 労働――働くことの自由と制度』(佐藤俊樹編,岩波書店,共著)など.

書評情報

朝日中学生ウイークリー 2011年5月8日号
朝日新聞(朝刊) 2011年4月24日
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