広告の誕生

近代メディア文化の歴史社会学

広告とは何か.近代のメディア・消費文化の生成から検討し,社会的意味,政治性を解明する斬新な論考.

広告の誕生
著者 北田 暁大
通し番号 学術207
ジャンル 書籍 > 岩波現代文庫 > 学術
日本十進分類 > 社会科学
刊行日 2008/12/16
ISBN 9784006002077
Cコード 0136
体裁 A6 ・ 並製 ・ カバー ・ 264頁
在庫 品切れ
「マジメに見ているわけではないのに,捕らわれてしまっている」──かつてベンヤミンが〈気散じ〉と呼んだ,奇妙に弛緩した身体性にて受容される広告.現在の我々の身体をも画定しているこの散漫な広告―経験の成立を,日本近代におけるメディア・消費文化の生成に即して検証,その「ねじれた」政治性を浮き彫りにする.

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本書は,著者の修士論文(1996年東京大学大学院人文社会系研究科に提出)「広告空間の近代」の第二部を再編成し,2000年に小社より刊行されました.
 広告とは何かについて,私たちはどれほど考えてきたでしょうか.本書は文化としての広告を紹介した作品ではありません.決して平明ではなく,それゆえに斜め読みが可能な本ではありません.このような本を若き著者はどのような問題意識で執筆したのでしょうか.本書執筆に至るきっかけについて,著者は「現代文庫版あとがき」の中で次のように書いています.かなり長大になりますが,まずは以下の文章をお読みいただきたいと存じます.
本書(のもととなる論文)の構想を練り始めたのは,95年の冬であったと記憶している.新宿の喫茶店で今は亡き父に「何の研究をやっているんだ」と問われ,「明治から昭和初期の広告」とこたえたところ,「そんな古いことをやっていてはいけない.もっと未来を作り出すような仕事をしないといけない」とお説教をくらった記憶がある.父は昭和40年代頃から質的なマーケティング手法を企業相手にトレーニングしたり,実演販売をしてみせたりする「コンサルタント」をしていたらしく――他人事のようだが,いまだに彼の仕事内容がよくわからないのである――,彼の本棚には,怪しげな自己啓発本や生物学の入門書(自己組織性の話が好きだったようだ),トフラーのような未来学の本が立ち並んでいた.本人なりに納得のいく企画書を仕上げると,子どものようにははしゃいで,その「凄さ」を語っていたりした.いわゆる文化資本というのとは全く縁遠い環境であったわけだが,そのぶん,あらゆるレトリックを駆使して「売らんかな」の論理に忠実に生きる〈香具師〉の生態を観察する機会に恵まれていた,といえるかもしれない.〈香具師的なるもの〉は,私自身が子どもの頃から馴染んできた日常風景そのものであった.
 だからこそ,かもしれない.私は80年代ごろから目に付くようになってきた広告批評や広告分析に,ほとんど関心を持つことができないでいた.「あとがき」にも書いたように,私は大学生の頃,典型的な「遅れてきたニューアカ青年」であったわけだが,ニューアカの言論空間において反復されていた広告の記号論的分析や,きわめて洗練された批評的分析に,感心しつつも,どうにも馴染むことができなかった.友人がフロイトやバルトの言葉を用いて広告や広告批評の批評(!)をしてくれても,わかったようでわからない.読むたびに,なんとなくくすぐったい感覚を覚えていたように思う.カルチュラル・スタディーズ系の広告分析にしてもしかり.アカデミックな広告分析に対して違和感があるというよりは,むしろ「そんなに広告のこと真面目に受け止めるなよ」という感じで,ようするにくすぐったいとしかいいようのない奇妙な生理感覚を感じるのだった.一方で,テレビでしばしば開陳される広告批評なるものに対しても,「そんなにポップに語られてもなぁ……」とやはり違和を感じずにはいられない.「広告は生真面目な批評の対象にならない」という諦めの感覚と,「広告には批評検索語がない」という危機の意識.その相反した二つの感覚・意識が,私のなかに共存していたように思う.このアンビヴァレンツを生じさせる広告の本質とはなんなのだろうか.広告は緩いものであるにもかかわらず,あるいはそうであるがゆえに,奇妙にその文化的価値を所与のものとして饒舌な語りの対象となり続けている.存在としての緩さとそれを囲繞する言説の過剰,その法外な不均衡を,私が目にしていた広告論は,ヴァルター・ベンヤミンをほとんど唯一の例外として,問題化していない,あるいは問題であるということに気付いていないように感じた(なんとも尊大な態度である……).ならば,その不均衡の歴史的本質を自分自身の研究の対象としよう,それが初発の問いであった.これは,言い換えるなら,香具師的なものを香具師的なものとして真剣に捉える,ということである(なので,私にとって〈香具師的なもの〉とはなんら否定的な規範的含みを持つ言葉ではない).実存論的にいえば,私の風景としてあった香具師の生態を,文化論的に変に持ち上げることなく,それでいて,メタレベルに立って裁断することもなく,そのものとして分析すること.その課題は,文化作品,文化遺産として広告を愛でることや持ち上げることによっては絶対に果たされえない.時代の寵児,文化的生産物としての広告作品にはまったく興味がないが,広告をたえず生み出す〈香具師的なもの〉の社会的・歴史的位置価は,しっかりと測定しておかなくてはならない.本書を書き上げた時点では自分自身気づいていなかったが,本書は広告研究の書ではなかったのだ.構想から10年以上たったいま,あらためてそう思う.
 以上の文章から著者が,本書をどのように書くべきか,どのように書くべきでないかを考え抜いてきたことが伝わってくるように思います.本書を通読するのは容易なことではありませんが,広告の本質について考えようという読者,広告の存在としての緩さ,過剰な言説について考えようという読者にとって,極めて有益な本であると信じるものです
北田暁大(きただ あきひろ)
1971年生まれ.東京大学文学部卒業.同大学大学院人文社会系研究科博士課程退学.現在,東京大学大学院情報学環准教授.博士(社会情報学).専攻=理論社会学,メディア史.著書に『広告都市・東京―その誕生と死』(廣済堂出版)『責任と正義―リベラリズムの居場所』(勁草書房)『「意味」への抗い―メディエーションの文化政治学』(せりか書房)『嗤う日本の「ナショナリズム」』(日本放送出版協会)他.
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