終末と革命のロシア・ルネサンス

20世紀初頭のロシアで,「終末」と「革命」への熱狂に取り憑かれた12人の芸術家たちを取り上げる.

終末と革命のロシア・ルネサンス
著者 亀山 郁夫
通し番号 文芸150
ジャンル 書籍 > 岩波現代文庫 > 文芸
日本十進分類 > 芸術/生活
刊行日 2009/05/15
ISBN 9784006021504
Cコード 0170
体裁 A6 ・ 420頁
在庫 品切れ
20世紀初頭のロシアでは,「ロシア・アヴァンギャルド」として知られる文芸復興運動が起きていた.本書では,この運動に参加したマヤコフスキー,メイエルホリドなど12人の芸術家を取りあげ,「革命」への熱狂と「終末」待望の意味を深く掘り下げる.文庫化に際し,4人の芸術家についての章を大幅に加筆した増補改訂版.

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ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』新訳の大ヒットで一躍その名を轟かせた亀山郁夫氏.しかし,若い頃に手を染めたドストエフスキー研究に回帰したのは50代の半ばからで,それまでは19-20世紀の世紀転換期からスターリン時代のロシア文化を主に研究していた.本書は,その研究成果の嚆矢ともいうべき1993年の著作『終末と革命のロシア・ルネサンス』の増補・全面改訂版である.今回,岩波現代文庫版として再刊するにあたり,1993年版でとりあげたロシア・アヴァンギャルドの芸術家たちだけでなく,その後のスターリン時代の芸術家(エイゼンシテイン,ショスタコーヴィチ,ロトチェンコ)などについても,それぞれ一章をさいてとりあげている.その意味で,後に大佛次郎賞に輝いた『磔のロシア――スターリンと芸術家たち』(岩波書店)につながる本であり,亀山郁夫のロシア文化研究の全容を知るためには必読の入門書といえよう.
 ドストエフスキーの新訳を読んだ方ならご存じと思うが,革命前後の激動期に生きた芸術家たちの人間像をかたる亀山氏の,人を酔わせるその筆致は,まさに芸術そのもの.「終末」と「革命」の夢に取り憑かれた芸術家たちのドラマを堪能していただきたい.
(S・N)

■〈第二の「誕生」――「現代文庫版あとがき」にかえて〉より

本書の母体となった『終末と革命のロシア・ルネサンス』が誕生してからじつに十七年の歳月が過ぎた.その間,私の問題意識は,ロシア・アヴァンギャルド研究からさらに時代をくだってスターリン時代の文化研究にシフトした.そのきっかけとなったのは,『破滅のマヤコフスキー』(筑摩書房)である.ロシア・アヴァンギャルドの星ともいうべき詩人ウラジーミル・マヤコフスキーの自殺を,歴史的な資料を用いて明らかにしようとしたこの本の執筆プロセスで,時代全体に不気味に影を伸ばしてくるスターリン権力の存在に気づかされた.そこで,私は,その本の執筆と平行して,二〇世紀ロシアを代表する創造的知識人とスターリン権力の戦いにかんする論文を順繰りに書きはじめた.(中略)
 このテーマに徐々に深く入り込もうとしていた私がなにより恐れていたのは,芸術と権力の対立というある意味で古臭いテーマが,弱者と強者の対決,あるいは前者の後者へのプロテストといった一面的かつ通俗的な図式に陥ることだった.そこで私が考えだした分析格子が,「二枚舌」だった.独裁権力が支配する時代に,「二枚舌」は,つねに権力への賛美と批判を含む,賛美も批判も心からの激しい情熱の対象とならざるをえない,という視点である.そもそも,そうした「賛美」に傾斜する「全体主義的熱狂」がロシア知識人の魂のうちに息づいている……こうして,彼らの作品に内在する権力との共生と批判という二重性を解きあかす作業の結実として生まれた著作が,『磔のロシア――スターリンと芸術家たち』(岩波書店)である.そしてこの本をとおして,「ロシア・ルネサンス」と呼ばれたロシア文化再生のうねりが,一九三七年の大テロルによって最終的に息の根を止められる事実に向かいあった.(中略)

 今回,『終末と革命のロシア・ルネサンス』を再刊するにあたって,私はいくつかの章を増補し,あるいは削除するなどして新しい視点を提示することにした.形式面における最大の変更は,本書を構成する章がすべて個人に関するモノグラフィーとして統一されたことである.一九九三年版(あえてそう呼ぶ)では,「共同事業の哲学」で知られるニコライ・フョードロフとその二〇世紀文化への継承というテーマに一章が割かれているが,構成上のバランスという視点に照らして,この章をよりコンパクトな形で要約し,本論の一部に組みいれることでこの難点を克服することにした.さらに,第二の変更点は,一九九三年版では,スターリン主義への視座をほとんど持つことができなかったのに対し,本書では,大々的にその視点が組み入れられた点である.これによって,ロシア文化の「再生」という喜びの物語に,もう一つ「全体」の視座が与えられ,より広くそのパースペクティブを明らかにすることができた.しかし,「全体」の視座は,もう一つの「終わり」を暗示するものとなった.スターリン主義は,同時代の知識人たちの熱狂の行き過ぎを恐れ,最終的にそれを葬り去ることでみずからの安心立命を保証しようとしたのだ.
 新しい装いのもとに刊行される本書は,「終末」と「革命」への熱狂から覚め,「全体」への共感を最後まで保持することができず,「二枚舌」によって権力に立ち向かおうとする芸術家たちの闘いで幕が閉じられている.「二枚舌」によるアイロニーが誕生したからには,もはや,「終末」も「革命」も青春の輝きたりえないということである.

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