韓国の若い友への手紙
歴史を開くために
歴史の他者とは誰か.若い世代と共に考える.済州四・三事件,日本近代と沖縄の「内なる他者」の声に耳を澄ませつつ.
歴史とは何か.民族の記憶や国家の正史とは異なる,私たち自身にとってのありうべき歴史とは何か.若い世代に語りかける.歴史を問うとは,記憶から排除されたもの=「歴史の他者」に開かれてあることではないか.済州四・三事件,日本近代と沖縄──からまり合う歴史にひそむ,私たちの「内なる他者」たちの声に耳を澄ます.
■著者からのメッセージ
この本は,2004年秋,40台半ばで忽然と世を去った韓国の女性研究者・姜玉楚(カン・オクチョ)さんの遺児にあてた8通の手紙からなっている.
姜玉楚(カン・オクチョ)さんの生前,わたしは「いっしょにやってみませんか」と,彼女にひとつの計画をもちかけていた.日本列島と朝鮮半島のあいだで織りなされてきた近現代の歴史を,その外に置かれてきたもの,あるいは「歴史の他者」との関係のなかで根本から問いなおしてみようというのが,それであった.歴史を開くためのこころみといいかえてもよい.
それは,ここ10年来,わたしなりにその論理と方法を鍛えあげようとしてきた,言説のヘテロトピア=異他なる反場所に定位したところからの「歴史のヘテロロジー」が指さす方向にほかならない.その「歴史のヘテロロジー」の実現可能性を日本列島と朝鮮半島のあいだで織りなされてきた近現代の歴史に即して具体的に探ってみようというのであった.具体的なトピックとしては,「済州四・三事件」と「琉球=沖縄」をかんがえていた.
その姜玉楚(カン・オクチョ)さんとのかなわなかった研究計画を想い,そこに編み込まれるはずであった人と著作と出来事とについて,遺された一人娘の和悦(ファヨル)さんにむけて書き綴ってみたのが本書である.
しかし,この本はたんに姜玉楚(カン・オクチョ)さんの追憶のためにだけ書かれたわけではない.メッセージそのものは,広く一般の読者にも差し向けられている.なかでも,和悦(ファヨル)さんは現在韓国の高校2年生であるが,その和悦(ファヨル)さんと同年代の,次の時代を担う若い人たちにまで届いてくれたらと願っている.
この本には,森崎和江,吉本隆明,谷川健一,新川明,橋川文三といった人たちの名前が登場する.わたしが思想形成期にすくなからぬ影響をうけた人たちである.その彼らが,60年代末から70年代にかけて,金嬉老事件の衝撃のもとで,大日本帝国の植民地時代の「朝鮮」をめぐって,あるいは,沖縄の日本への施政権返還が間近にせまるなかで,「琉球=沖縄」と「本土」の関係をめぐって,くりひろげてきた思索がとりあげられている.
彼らにとって,「朝鮮」あるいは「琉球=沖縄」とはなんであったのか.思いはさまざまであっただろう.しかし,それらの相違を貫いて共通するものがあったとすれば,それはおそらく森崎さんがいみじくも〈同質性のなかの「異族」の発見〉と呼んだ経験であったということができるのではないだろうか.これは彼らの世代が後代にのこした最も貴重な経験であったのではないかとおもう.
ところが,今日では,その彼らの経験を振り返ろうとする者は,皆無にひとしい.このことにわたしは深く責任を感じる.とともに,本書が,こうしてそれ自体が「歴史の他者」となってしまった感のある彼らの声を,広く一般の読者や若い人たちに伝達する一助になってくれればと願っているしだいである.
■編集部からのメッセージ
朝鮮半島と琉球弧と日本列島,三者のあいだで重なり合い,絡まり合いつつ織りなされてきた近代史の淵をのぞきこむ.済州四・三事件と従軍慰安婦問題,これら歴史の結節をしるす出来事に秘められた沈黙の意味,琉球と大和の地政学的な関係から生まれた記憶の断片――具体的な歴史過程を通して問いかける,「歴史の他者」つまり忘却の縁に追いやられた者にとって,歴史とは何か.
韓国の女子高校生に向けて,著者自身の思想形成史からいくつかの出会いを喚び出し,そもそも逆説をはらんだ歴史と記憶をめぐる難問について,実感に即し,噛み砕いて語りかける.なぜ,重く刻まれた経験は語りえないのか,沈黙に沈められた記憶にこそ,人を生かす力が秘められているのではないのか.
言説のヘテロトピア=異他なる反場所に身を置いたところからの「歴史のヘテロロジー」の構想を,リアルな歴史のキャンバスに素描しようとする挑戦であり,著者自身の思想遍歴の書でもある.
【編集部 中川和夫】
■著者からのメッセージ
この本は,2004年秋,40台半ばで忽然と世を去った韓国の女性研究者・姜玉楚(カン・オクチョ)さんの遺児にあてた8通の手紙からなっている.
姜玉楚(カン・オクチョ)さんの生前,わたしは「いっしょにやってみませんか」と,彼女にひとつの計画をもちかけていた.日本列島と朝鮮半島のあいだで織りなされてきた近現代の歴史を,その外に置かれてきたもの,あるいは「歴史の他者」との関係のなかで根本から問いなおしてみようというのが,それであった.歴史を開くためのこころみといいかえてもよい.
それは,ここ10年来,わたしなりにその論理と方法を鍛えあげようとしてきた,言説のヘテロトピア=異他なる反場所に定位したところからの「歴史のヘテロロジー」が指さす方向にほかならない.その「歴史のヘテロロジー」の実現可能性を日本列島と朝鮮半島のあいだで織りなされてきた近現代の歴史に即して具体的に探ってみようというのであった.具体的なトピックとしては,「済州四・三事件」と「琉球=沖縄」をかんがえていた.
その姜玉楚(カン・オクチョ)さんとのかなわなかった研究計画を想い,そこに編み込まれるはずであった人と著作と出来事とについて,遺された一人娘の和悦(ファヨル)さんにむけて書き綴ってみたのが本書である.
しかし,この本はたんに姜玉楚(カン・オクチョ)さんの追憶のためにだけ書かれたわけではない.メッセージそのものは,広く一般の読者にも差し向けられている.なかでも,和悦(ファヨル)さんは現在韓国の高校2年生であるが,その和悦(ファヨル)さんと同年代の,次の時代を担う若い人たちにまで届いてくれたらと願っている.
この本には,森崎和江,吉本隆明,谷川健一,新川明,橋川文三といった人たちの名前が登場する.わたしが思想形成期にすくなからぬ影響をうけた人たちである.その彼らが,60年代末から70年代にかけて,金嬉老事件の衝撃のもとで,大日本帝国の植民地時代の「朝鮮」をめぐって,あるいは,沖縄の日本への施政権返還が間近にせまるなかで,「琉球=沖縄」と「本土」の関係をめぐって,くりひろげてきた思索がとりあげられている.
彼らにとって,「朝鮮」あるいは「琉球=沖縄」とはなんであったのか.思いはさまざまであっただろう.しかし,それらの相違を貫いて共通するものがあったとすれば,それはおそらく森崎さんがいみじくも〈同質性のなかの「異族」の発見〉と呼んだ経験であったということができるのではないだろうか.これは彼らの世代が後代にのこした最も貴重な経験であったのではないかとおもう.
ところが,今日では,その彼らの経験を振り返ろうとする者は,皆無にひとしい.このことにわたしは深く責任を感じる.とともに,本書が,こうしてそれ自体が「歴史の他者」となってしまった感のある彼らの声を,広く一般の読者や若い人たちに伝達する一助になってくれればと願っているしだいである.
■編集部からのメッセージ
朝鮮半島と琉球弧と日本列島,三者のあいだで重なり合い,絡まり合いつつ織りなされてきた近代史の淵をのぞきこむ.済州四・三事件と従軍慰安婦問題,これら歴史の結節をしるす出来事に秘められた沈黙の意味,琉球と大和の地政学的な関係から生まれた記憶の断片――具体的な歴史過程を通して問いかける,「歴史の他者」つまり忘却の縁に追いやられた者にとって,歴史とは何か.
韓国の女子高校生に向けて,著者自身の思想形成史からいくつかの出会いを喚び出し,そもそも逆説をはらんだ歴史と記憶をめぐる難問について,実感に即し,噛み砕いて語りかける.なぜ,重く刻まれた経験は語りえないのか,沈黙に沈められた記憶にこそ,人を生かす力が秘められているのではないのか.
言説のヘテロトピア=異他なる反場所に身を置いたところからの「歴史のヘテロロジー」の構想を,リアルな歴史のキャンバスに素描しようとする挑戦であり,著者自身の思想遍歴の書でもある.
【編集部 中川和夫】
まえがき
第一信
歴史を開くために
――「歴史の他者」とのかかわりのなかで
第二信
なぜ沈黙してこざるをえなかったのか
――金時鐘の済州四・三事件
第三信
恥をはにかむ
――李静和と秘められたものへのまなざし
第四信
あの眼よ,いまこそあなた自身を語れ
――森崎和江の〈朝鮮〉
第五信
天皇制をどう超えるか
――吉本隆明「異族の論理」の衝撃
第六信
ヘテロトピアと「まったくの他者」
――わたしの内なる「琉球人部落」から
第七信
身体の奥の眼?
――「臨床の智」と「亡命者の生」
第八信
ヤポネシアと西郷隆盛の夢
――島尾敏雄 = 橋川文三対談にふれて
後 記
第一信
歴史を開くために
――「歴史の他者」とのかかわりのなかで
第二信
なぜ沈黙してこざるをえなかったのか
――金時鐘の済州四・三事件
第三信
恥をはにかむ
――李静和と秘められたものへのまなざし
第四信
あの眼よ,いまこそあなた自身を語れ
――森崎和江の〈朝鮮〉
第五信
天皇制をどう超えるか
――吉本隆明「異族の論理」の衝撃
第六信
ヘテロトピアと「まったくの他者」
――わたしの内なる「琉球人部落」から
第七信
身体の奥の眼?
――「臨床の智」と「亡命者の生」
第八信
ヤポネシアと西郷隆盛の夢
――島尾敏雄 = 橋川文三対談にふれて
後 記
上村 忠男(ウエムラ・タダオ)
1941年生まれ.専攻,学問論・思想史.現在,東京外国語大学名誉教授.
著書:『ヴィーコの懐疑』(みすず書房,1988),『クリオの手鏡――二十世紀イタリアの思想家たち』(平凡社,1989),『歴史家と母たち――カルロ・ギンズブルグ論』(未来社,1994),『ヘテロトピアの思考』(未来社,1996),『バロック人ヴィーコ』(みすず書房,1998),『歴史が書きかえられる時』歴史を問う5(編著,岩波書店,2001),『沖縄の記憶/日本の歴史』(編著,未来社,2002),『歴史的理性の批判のために』(岩波書店,2002),『超越と横断――言説のヘテロトピアへ』(未来社,2002),『歴史の解体と再生』歴史を問う6(編著,岩波書店,2003),『グラムシ獄舎の思想』(青土社,2005).このほか,ジャンバッティスタ・ヴィーゴ,アントニオ・グラムシ,カルロ・ギンズブルグ,ジョルジョ・アガンベン,ガーヤットリー・チャクラヴォルディ・スピヴァクのものなど,訳書多数.
1941年生まれ.専攻,学問論・思想史.現在,東京外国語大学名誉教授.
著書:『ヴィーコの懐疑』(みすず書房,1988),『クリオの手鏡――二十世紀イタリアの思想家たち』(平凡社,1989),『歴史家と母たち――カルロ・ギンズブルグ論』(未来社,1994),『ヘテロトピアの思考』(未来社,1996),『バロック人ヴィーコ』(みすず書房,1998),『歴史が書きかえられる時』歴史を問う5(編著,岩波書店,2001),『沖縄の記憶/日本の歴史』(編著,未来社,2002),『歴史的理性の批判のために』(岩波書店,2002),『超越と横断――言説のヘテロトピアへ』(未来社,2002),『歴史の解体と再生』歴史を問う6(編著,岩波書店,2003),『グラムシ獄舎の思想』(青土社,2005).このほか,ジャンバッティスタ・ヴィーゴ,アントニオ・グラムシ,カルロ・ギンズブルグ,ジョルジョ・アガンベン,ガーヤットリー・チャクラヴォルディ・スピヴァクのものなど,訳書多数.
書評情報
週刊読書人 2006年10月6日号