幼児期と歴史
経験の破壊と歴史の起源
言語・歴史理論上の革命的アイデアと,方法としての遊びを,ベンヤミンと共に展開した,思想家の出発を告げる初期著作.
著者 | ジョルジョ・アガンベン 著 , 上村 忠男 訳 |
---|---|
ジャンル | 書籍 > 単行本 > 哲学 |
刊行日 | 2007/01/26 |
ISBN | 9784000254571 |
Cコード | 0010 |
体裁 | 四六 ・ 上製 ・ 272頁 |
在庫 | 品切れ |
近代の彼方を透視しようとする発見術的思考──閉塞した現代の思想空間に新生面を拓きつつあるアガンベンの初期著作.世界経験の崩壊と実存の命運に新しい表現を与えるための方法として,ベンヤミンに学びつつ言語と歴史の理論の礎石を据える.「幼児期」という革命的アイデアと,方法としての「遊び」をめぐる考察とを収めた,独創的な思想家の出発を告げる書.
■「歴史とは何か」への第三の答え――「訳者解説」より
〔本書において〕出発点に据えられているのは,いまやわたしたち現代人のもとでは経験は剥奪され破壊されてしまったという事実の確認である.この事実の確認から出発して,まずは経験が剥奪され破壊されてしまった経緯と原因が近代科学の起点にまでさかのぼったところからたどりなおされる.そして,追尋の結果,到来する人類のための新しい経験の理論を探りあてるためには人間における言語活動の存在理由をあらためて問いなおすことが不可欠であるとの結論が導きだされるとともに,その存在理由を人間における「インファンティア」,つまりは「いまだ言語活動をもたない状態」との関連性において問うことがこころみられている.
ここで特記されるのは,なによりもわたしたち人間が人間であることと言語活動をもった存在であることとのあいだには断裂があり,わたしたちが言語活動をもった存在になるためにはインファンティアの境位をかいくぐらざるをえないことに注目されるとともに,この事実のうちに歴史の起源を見さだめようとされていることだろう.(……)
インファンティアというのは幼児心理学や考古人類学が想定しているようなクロノロジー的に言語活動に先行する心理的事実ではなくて,あくまでも超越論的な意味での経験であると規定したうえで,アガンベンはまたこうも述べている.「歴史にはじめてその空間を開くのは,インファンティアなのである.ラングとパロールのあいだの差異の超越論的経験なのである.このために,バベルすなわちエデンの純粋言語からの脱出とインファンティアの口ごもりへの入場は,歴史の超越論的起源なのだ……」.
ここには,歴史とはなにか,人間が歴史的存在であるとはどのような意味においてであるのか,という問いかけをめぐって,ひとつの疑いもなく新しい答えが提示されている.
上村忠男
■編集部からのメッセージ
アガンベンは,「ホモ・サケル」プロジェクトで,21世紀を生きる人間の政治的・存在論的命運に新しい表現を与えました.その政治哲学上のアイデアを喚起しまた支えてもいる,いわば方法的な核心を指し示して,ブリリアントな思想家の現在を予告する初期著作です.
「語りえぬものについては沈黙せねばならない」(ウィトゲンシュタイン).この言葉の呪縛は,意外なところに効いているのではないでしょうか.「語られたものが歴史であって,すでに史実が成立していないところに歴史の語りはありえない」,あるいは「神秘とは常にすでに語られたものであって,名指されることを待っているある種のリアリティなどは形容矛盾に過ぎない」というように.ここに潜んでいる循環は,なかなかに手強いものです.
アガンベンは,「語りえぬもの」とは言語の限界を画するものではなくて,むしろ逆にそれを前提にしなければ言語活動自体が成り立ちえないもののことなのだ,と言います.そして,言語以前でも以後でもなく,言葉の内でも外でもないその場所を,インファンティア(幼児期)という語によって象徴的に語り出そうとします.
「幼児期」とは,この語のイメージが連想させるような,人のいまだ言語活動を持たない状態,あるいは言葉を発する以前のある心的状態を指すのではありません.言語を持ってしまった人間の語るという行為に,いわば常に寄り添っていて,語ること自体をはじめて可能にする,一つの裂け目と隙間,言い換えれば「閾」のことだ,と言うのです.
ここにみられる言語理論上の革命的な着想は,一義的に了解し位置づけることのなかなか難しいものに違いありません.しかし,ここからアガンベンの読者なら誰しも知っている,あのしなやかで浸透力に富んだ「発見術的思考」が紡ぎ出されていくのです.本書でも,異質なフィールドを自在に往来し,トピックの間の思いがけぬ関係の糸を明るみに出してゆく,あの繊細な手業は遺憾なく発揮されています.
読み進むうちに,とんでもない場所に導かれ,立たされていることに気づく,一級の思想書が持つそうした質を,本書は紛れもなく具えています.
【編集部 中川和夫】
■「歴史とは何か」への第三の答え――「訳者解説」より
〔本書において〕出発点に据えられているのは,いまやわたしたち現代人のもとでは経験は剥奪され破壊されてしまったという事実の確認である.この事実の確認から出発して,まずは経験が剥奪され破壊されてしまった経緯と原因が近代科学の起点にまでさかのぼったところからたどりなおされる.そして,追尋の結果,到来する人類のための新しい経験の理論を探りあてるためには人間における言語活動の存在理由をあらためて問いなおすことが不可欠であるとの結論が導きだされるとともに,その存在理由を人間における「インファンティア」,つまりは「いまだ言語活動をもたない状態」との関連性において問うことがこころみられている.
ここで特記されるのは,なによりもわたしたち人間が人間であることと言語活動をもった存在であることとのあいだには断裂があり,わたしたちが言語活動をもった存在になるためにはインファンティアの境位をかいくぐらざるをえないことに注目されるとともに,この事実のうちに歴史の起源を見さだめようとされていることだろう.(……)
インファンティアというのは幼児心理学や考古人類学が想定しているようなクロノロジー的に言語活動に先行する心理的事実ではなくて,あくまでも超越論的な意味での経験であると規定したうえで,アガンベンはまたこうも述べている.「歴史にはじめてその空間を開くのは,インファンティアなのである.ラングとパロールのあいだの差異の超越論的経験なのである.このために,バベルすなわちエデンの純粋言語からの脱出とインファンティアの口ごもりへの入場は,歴史の超越論的起源なのだ……」.
ここには,歴史とはなにか,人間が歴史的存在であるとはどのような意味においてであるのか,という問いかけをめぐって,ひとつの疑いもなく新しい答えが提示されている.
上村忠男
■編集部からのメッセージ
アガンベンは,「ホモ・サケル」プロジェクトで,21世紀を生きる人間の政治的・存在論的命運に新しい表現を与えました.その政治哲学上のアイデアを喚起しまた支えてもいる,いわば方法的な核心を指し示して,ブリリアントな思想家の現在を予告する初期著作です.
「語りえぬものについては沈黙せねばならない」(ウィトゲンシュタイン).この言葉の呪縛は,意外なところに効いているのではないでしょうか.「語られたものが歴史であって,すでに史実が成立していないところに歴史の語りはありえない」,あるいは「神秘とは常にすでに語られたものであって,名指されることを待っているある種のリアリティなどは形容矛盾に過ぎない」というように.ここに潜んでいる循環は,なかなかに手強いものです.
アガンベンは,「語りえぬもの」とは言語の限界を画するものではなくて,むしろ逆にそれを前提にしなければ言語活動自体が成り立ちえないもののことなのだ,と言います.そして,言語以前でも以後でもなく,言葉の内でも外でもないその場所を,インファンティア(幼児期)という語によって象徴的に語り出そうとします.
「幼児期」とは,この語のイメージが連想させるような,人のいまだ言語活動を持たない状態,あるいは言葉を発する以前のある心的状態を指すのではありません.言語を持ってしまった人間の語るという行為に,いわば常に寄り添っていて,語ること自体をはじめて可能にする,一つの裂け目と隙間,言い換えれば「閾」のことだ,と言うのです.
ここにみられる言語理論上の革命的な着想は,一義的に了解し位置づけることのなかなか難しいものに違いありません.しかし,ここからアガンベンの読者なら誰しも知っている,あのしなやかで浸透力に富んだ「発見術的思考」が紡ぎ出されていくのです.本書でも,異質なフィールドを自在に往来し,トピックの間の思いがけぬ関係の糸を明るみに出してゆく,あの繊細な手業は遺憾なく発揮されています.
読み進むうちに,とんでもない場所に導かれ,立たされていることに気づく,一級の思想書が持つそうした質を,本書は紛れもなく具えています.
【編集部 中川和夫】
序 言語活動の経験
インファンティアと歴史
経験の破壊にかんする論考
おもちゃの国
歴史と遊戯にかんする省察
時間と歴史
瞬間と連続の批判
君主とカエル
アドルノとベンヤミンにおける方法の問題
おとぎ話と歴史
プレセペにかんする考察
ある雑誌のための綱領
解説――アガンベン読解のための第三の扉 上村忠男
訳者あとがき
インファンティアと歴史
経験の破壊にかんする論考
おもちゃの国
歴史と遊戯にかんする省察
時間と歴史
瞬間と連続の批判
君主とカエル
アドルノとベンヤミンにおける方法の問題
おとぎ話と歴史
プレセペにかんする考察
ある雑誌のための綱領
解説――アガンベン読解のための第三の扉 上村忠男
訳者あとがき
ジョルジョ・アガンベン(Giorgio Agamben)
1942年,ローマ生まれ.2003年11月より,ヴェネツィア建築大学美学教授.
邦訳には次のものがある.『スタンツェ――西洋文化における言葉とイメージ』(岡田温司訳,ありな書房,1998),『人権の彼方に――政治哲学ノート』(高桑和巳訳,以文社,2000),『中味のない人間』(岡田・岡部・多賀訳,人文書院,2002),『ホモ・サケル――主権権力と剥き出しの生』(高桑和巳訳,以文社,2003),『アウシュヴイッツの残りのもの――アルシーヴと証人』(上村・廣石訳,月曜社,2001),『開かれ――人間と動物』(岡田・多賀訳,平凡社,2004),『パートルビー――偶然性について』(高桑和巳訳,月曜社,2005),『涜神(上村・堤訳,月曜社,2005),『残りの時――パウロ講義』(上村忠男訳,岩波書店,2005).
上村忠男(うえむら・ただお)
1941年生まれ.専攻,学問論・思想史.現在,東京外国語大学名誉教授.著書:『ヴイーコの懐疑』(みすず書房,1988),『クリオの手鏡――二十世紀イタリアの思想家たち』(平凡社,1989),『歴史家と母たち――カルロ・ギンズブルグ論』(未来社,1994),『ヘテロトピアの思考』(未来社,1996),『バロック人ヴィーコ』(みすず書房,1998),『歴史が書きかえられる時』歴史を問う5(編著,岩波書店,2001),『沖縄の記憶/日本の歴史(編著,未来社,2002),『歴史的理性の批判のために』(岩波書店,2002),『超越と横断――言説のヘテロトピアヘ』(未来社,2002),『歴史の解体と再生』歴史を問う6(編著,岩波書店,2003),『グラムシ 獄舎の思想』(青土社,2005),『韓国の若い友への手紙――歴史を開くために』(岩波書店,2006).このほか,ジャンバッティスタ・ヴィーコ,アントニオ・グラムシ,カルロ・ギンズブルグ,ガーヤットリー・チヤ・クラヴォルティ・スピヴァクのものなど,訳書多数.
1942年,ローマ生まれ.2003年11月より,ヴェネツィア建築大学美学教授.
邦訳には次のものがある.『スタンツェ――西洋文化における言葉とイメージ』(岡田温司訳,ありな書房,1998),『人権の彼方に――政治哲学ノート』(高桑和巳訳,以文社,2000),『中味のない人間』(岡田・岡部・多賀訳,人文書院,2002),『ホモ・サケル――主権権力と剥き出しの生』(高桑和巳訳,以文社,2003),『アウシュヴイッツの残りのもの――アルシーヴと証人』(上村・廣石訳,月曜社,2001),『開かれ――人間と動物』(岡田・多賀訳,平凡社,2004),『パートルビー――偶然性について』(高桑和巳訳,月曜社,2005),『涜神(上村・堤訳,月曜社,2005),『残りの時――パウロ講義』(上村忠男訳,岩波書店,2005).
上村忠男(うえむら・ただお)
1941年生まれ.専攻,学問論・思想史.現在,東京外国語大学名誉教授.著書:『ヴイーコの懐疑』(みすず書房,1988),『クリオの手鏡――二十世紀イタリアの思想家たち』(平凡社,1989),『歴史家と母たち――カルロ・ギンズブルグ論』(未来社,1994),『ヘテロトピアの思考』(未来社,1996),『バロック人ヴィーコ』(みすず書房,1998),『歴史が書きかえられる時』歴史を問う5(編著,岩波書店,2001),『沖縄の記憶/日本の歴史(編著,未来社,2002),『歴史的理性の批判のために』(岩波書店,2002),『超越と横断――言説のヘテロトピアヘ』(未来社,2002),『歴史の解体と再生』歴史を問う6(編著,岩波書店,2003),『グラムシ 獄舎の思想』(青土社,2005),『韓国の若い友への手紙――歴史を開くために』(岩波書店,2006).このほか,ジャンバッティスタ・ヴィーコ,アントニオ・グラムシ,カルロ・ギンズブルグ,ガーヤットリー・チヤ・クラヴォルティ・スピヴァクのものなど,訳書多数.
書評情報
読売新聞(朝刊) 2007年5月13日