子ども学序説
変わる子ども,変わらぬ子ども
子どもという存在を,根本から考えるために.「生きた発達心理学」を訴える著者の,凝縮された子ども論.
各地の大学に「子ども学」を冠した学科やコースができ,注目を集めている.保護すべきであるとともに,ときに大人を震撼させる行動も起こす存在…….かつてなく子どもというものが「問題」となる時代に,私たちは現在の子どもが生きる条件を,どう捉えるべきなのだろうか.著者の長年の子ども論を,凝縮してつたえる.
■著者からのメッセージ
「子ども学」という,いまだに耳慣れないことばを聞きはじめたのは,もう10年ほども前のことだろうか.そのころ,大学に「子ども学」を冠した学科やコースがぽつぽつできはじめていた.聞くところでは,それがいまではもう全国で100に近い数になっているという.ただ奇妙なことに,「子ども学」ということで「学」の名を帯びていても,その対象とする問題領域が確認されて,それ独自の研究成果が積み上げられてきたわけではない.にもかかわらず,なぜ「子ども学」なのか.
一つには,いま大学がおかれているきわめて現実的な状況からの要請がある.大学進学希望者全入時代を目前にひかえて,保育系,教育系大学が生き残りをかけ,目を引くネーミングをあれこれ考えた結果が,期せずして「子ども学」としてあちこちの大学に登場した.そういう事情も考えられる.しかし,そのうえで,なぜそれが「子ども学」なのか.
思えば,いまほど「子ども」が問題として世間に浮かび上がった時代は,かつてなかった.たとえば少子化,育児不安,子どもの事故や被害,あるいは学力低下,不登校,学級崩壊,子どものいじめや非行や犯罪……,問題は数限りなくある.同じ犯罪でも,子どもが犯した犯罪,子どもが被害者になった犯罪となると,それだけマスコミでも大きく取り上げられる.子どもがそうして問題として浮かび上がる背後で,もちろん,親も教師も,地域も行政も,自治体も政府も,そしてアカデミズムの研究者たちもまた,これを何とかしなければという思いを強めている.だからこそ人々は,「子ども学」にある種の期待を寄せているのであろう.
しかし問題の根は浅くない.表に出た問題に向けて調査や研究を重ね,直接それぞれに解決策を求め,対策を講じることで,ことが片付くほど単純とは思えない.むしろ子どもの問題を「問題」として取り上げる社会のまなざしをも含めて,大きく言えば文明史の視点のもとにこれを見なければ,短期的な対策や対症的な療法が舞いかうだけで,ただの空騒ぎに終わりかねないのではないか.そんな懸念を拭えない.
この状況のなかで「子ども学」に積極的な意味があるとすれば,それは「問題としての子ども」をあれこれ議論する前に,「存在としての子ども」を見つめ,あるいは子どもを,人間存在を捉えるために一つの視点として押さえるところにあるのではないか.それは「子ども」ということを一つの方法として見るということでもある.
かつての人間学が,できあがってしまった完態としての人間から発想するのに対して,子どもに視点をおく子ども学は,人間の現象をあくまで〈形成の相の下に〉捉える.そのことによってこそ,私たちがいま立ち会っている文明史的な問題もまた新たな視点から見えてくるだろうし,「子ども学」はそのとき,単に子どもを問題の対象とする学という以上の意味を帯びて現れてくるのではないだろうか.
(本書「おわりに――子ども学の可能性」より
■著者からのメッセージ
「子ども学」という,いまだに耳慣れないことばを聞きはじめたのは,もう10年ほども前のことだろうか.そのころ,大学に「子ども学」を冠した学科やコースがぽつぽつできはじめていた.聞くところでは,それがいまではもう全国で100に近い数になっているという.ただ奇妙なことに,「子ども学」ということで「学」の名を帯びていても,その対象とする問題領域が確認されて,それ独自の研究成果が積み上げられてきたわけではない.にもかかわらず,なぜ「子ども学」なのか.
一つには,いま大学がおかれているきわめて現実的な状況からの要請がある.大学進学希望者全入時代を目前にひかえて,保育系,教育系大学が生き残りをかけ,目を引くネーミングをあれこれ考えた結果が,期せずして「子ども学」としてあちこちの大学に登場した.そういう事情も考えられる.しかし,そのうえで,なぜそれが「子ども学」なのか.
思えば,いまほど「子ども」が問題として世間に浮かび上がった時代は,かつてなかった.たとえば少子化,育児不安,子どもの事故や被害,あるいは学力低下,不登校,学級崩壊,子どものいじめや非行や犯罪……,問題は数限りなくある.同じ犯罪でも,子どもが犯した犯罪,子どもが被害者になった犯罪となると,それだけマスコミでも大きく取り上げられる.子どもがそうして問題として浮かび上がる背後で,もちろん,親も教師も,地域も行政も,自治体も政府も,そしてアカデミズムの研究者たちもまた,これを何とかしなければという思いを強めている.だからこそ人々は,「子ども学」にある種の期待を寄せているのであろう.
しかし問題の根は浅くない.表に出た問題に向けて調査や研究を重ね,直接それぞれに解決策を求め,対策を講じることで,ことが片付くほど単純とは思えない.むしろ子どもの問題を「問題」として取り上げる社会のまなざしをも含めて,大きく言えば文明史の視点のもとにこれを見なければ,短期的な対策や対症的な療法が舞いかうだけで,ただの空騒ぎに終わりかねないのではないか.そんな懸念を拭えない.
この状況のなかで「子ども学」に積極的な意味があるとすれば,それは「問題としての子ども」をあれこれ議論する前に,「存在としての子ども」を見つめ,あるいは子どもを,人間存在を捉えるために一つの視点として押さえるところにあるのではないか.それは「子ども」ということを一つの方法として見るということでもある.
かつての人間学が,できあがってしまった完態としての人間から発想するのに対して,子どもに視点をおく子ども学は,人間の現象をあくまで〈形成の相の下に〉捉える.そのことによってこそ,私たちがいま立ち会っている文明史的な問題もまた新たな視点から見えてくるだろうし,「子ども学」はそのとき,単に子どもを問題の対象とする学という以上の意味を帯びて現れてくるのではないだろうか.
(本書「おわりに――子ども学の可能性」より
序章
「子どもである」という条件/子育ては自然と文化の出会うところ/自然をくるむようにして生まれた文化/文化が自然を裏切るとき/学校教育は子どもの自然を裏切っていないか
I 子どもという自然
第1章 「わたし」の生まれるところ
1 身体という場――〈わたし〉の発生する場所
しゃぼん玉/環世界というもの/目の位置から広がる遠近法の世界/空間知覚における恒常性と最遠平面/時間の最遠平面
2 この世で互いに身体をつきあわせて
私の〈わたし〉と他者の〈わたし〉/何もないところに〈わたし〉を立ち上げる/赤ちゃんのなかに〈わたし〉を見る/受動の嵐にさらされて
3 ふたたびしゃぼん玉に戻って
〈わたし〉のなかに他者の〈わたし〉が染み込んでいる/しゃぼん玉のように閉じ,しゃぼん玉のように開く/おのずからなる「共同」のなかにいて
第2章 子どもの能力と無力
1 能力と生活の織り合わせ
「自然の計画」というもの/能力は個体で閉じない/人と人を織り合わせている「自然の計画」/身につけた能力とそれを使った生活
2 人間の計画と個体能力論
能力が能力として取り出されるとき/子どもの自然が損なわれていくとき
3 人間の壁――泣くということの意味
泣くという能力/二つの泣き/自然の壁と人間の壁/「神のうち」からの出立
第3章 「神のうち」から「人の世」へ
1 内の世界が生まれるまでの前史
共生からことばの世界へ/1次的ことばが外に内に広げる世界/2次的ことばが生み出す世界
2 「ぼく」の変容
第2の誕生/外に向かう「ぼく」
3 外から内へ――子どもからの脱皮
外へ広がることばの宇宙/内へ向かうベクトルの萌芽/内向することばの宇宙――心性のコペルニクス的転回
4 青年に向かう子どもたちの心性の構造
ひとりとふたり/秘密とその共有/オモテとウラ/性と対の形成
5 子どもたちの行方
人の世界は対人世界に閉じない/疎外の個体発生
II 学校という文化
第4章 学校のまなざしとその錯覚
1 子どもはひたすら「守られる存在」ではない
〈守る-守られる〉という人間の自然/自分の力で人を喜ばせて喜ぶ生き物
2 子どもはひたすら「力を身につける存在」ではない
身につけた力を使って生きる/文字の読み書きの力とそれによって広がる世界/子どもが学校で身につけた力は,どこでどのように使われるのか
3 錯覚から引き起こされた残酷な不幸
ある少年事件/「発達障害」という診断/「個人を変える」という発想/剥き出しになった個人
4 発達の大原則と教育のまなざし
人が生きるかたち/手持ちの力を使って,いまをともに生きる/子どもの「将来」と「教育」のまなざし
第5章 「学べない」子どもたち――学びの危機
1 明日への希望と閉塞
二つの詩から/希望の場としての学校/自分が自分でなくなる場
2 学ぶ生き物である人間が,学ぶ場としての学校で,学べない
学びにまつわる錯覚/「将来のためにあらかじめ」という発想/学ぶべきことが外からあらかじめ決められる
3 心理学の倒錯
動機づけという発想/「内発的動機づけ」ということの奇妙さ
4 学びの構図,希望の構図
第6章 いじめという回路
1 学校という場所
ある中学生の手紙/同年齢で輪切りにされた集団/学校が社会のなかで占める位置の変化
2 生き物としてのライフサイクル――〈守られる-守る〉こと,対等性を生きること
人と人との間に葛藤のない時代はない/関係の重層性を奪われた子ども時代
3 回路をなすいじめ
立ち向かえないいじめの回路/相互性がない/中心がはっきりしない/いじめる側の理屈に,いじめられる側が飲み込まれる/集団が閉じている
4 閉じた回路から開いた順路へ
おとなたちの直接的介入とその限界/学校を外に向けて開く/重層性の成り立つ場で差異を認め合う/特別支援教育の理念と現実/生活の場としての学校
第7章 学校は子どもたちの生活の場になりうるか
1 学校のまなざしと生活のまなざし
友だちのうちはどこ?/地域離れ,生活離れをうながす学校
2 学校とは何だったのか
学校は〈生きるかたち〉を伝える場であったか/学校と「富国強兵」/学校教育の階梯――身を立て名を上げ
3 子どもたちを生活へと導き入れる学びを
〈生きるすべ〉よりも〈生きるかたち〉を/学校の出番
4 遠近法のある暮らし
遠近法なき情報の空騒ぎ/遠近法世界に映る小宇宙/子ども学のまなざし
注
文献案内
おわりに――子ども学の可能性
「子どもである」という条件/子育ては自然と文化の出会うところ/自然をくるむようにして生まれた文化/文化が自然を裏切るとき/学校教育は子どもの自然を裏切っていないか
I 子どもという自然
第1章 「わたし」の生まれるところ
1 身体という場――〈わたし〉の発生する場所
しゃぼん玉/環世界というもの/目の位置から広がる遠近法の世界/空間知覚における恒常性と最遠平面/時間の最遠平面
2 この世で互いに身体をつきあわせて
私の〈わたし〉と他者の〈わたし〉/何もないところに〈わたし〉を立ち上げる/赤ちゃんのなかに〈わたし〉を見る/受動の嵐にさらされて
3 ふたたびしゃぼん玉に戻って
〈わたし〉のなかに他者の〈わたし〉が染み込んでいる/しゃぼん玉のように閉じ,しゃぼん玉のように開く/おのずからなる「共同」のなかにいて
第2章 子どもの能力と無力
1 能力と生活の織り合わせ
「自然の計画」というもの/能力は個体で閉じない/人と人を織り合わせている「自然の計画」/身につけた能力とそれを使った生活
2 人間の計画と個体能力論
能力が能力として取り出されるとき/子どもの自然が損なわれていくとき
3 人間の壁――泣くということの意味
泣くという能力/二つの泣き/自然の壁と人間の壁/「神のうち」からの出立
第3章 「神のうち」から「人の世」へ
1 内の世界が生まれるまでの前史
共生からことばの世界へ/1次的ことばが外に内に広げる世界/2次的ことばが生み出す世界
2 「ぼく」の変容
第2の誕生/外に向かう「ぼく」
3 外から内へ――子どもからの脱皮
外へ広がることばの宇宙/内へ向かうベクトルの萌芽/内向することばの宇宙――心性のコペルニクス的転回
4 青年に向かう子どもたちの心性の構造
ひとりとふたり/秘密とその共有/オモテとウラ/性と対の形成
5 子どもたちの行方
人の世界は対人世界に閉じない/疎外の個体発生
II 学校という文化
第4章 学校のまなざしとその錯覚
1 子どもはひたすら「守られる存在」ではない
〈守る-守られる〉という人間の自然/自分の力で人を喜ばせて喜ぶ生き物
2 子どもはひたすら「力を身につける存在」ではない
身につけた力を使って生きる/文字の読み書きの力とそれによって広がる世界/子どもが学校で身につけた力は,どこでどのように使われるのか
3 錯覚から引き起こされた残酷な不幸
ある少年事件/「発達障害」という診断/「個人を変える」という発想/剥き出しになった個人
4 発達の大原則と教育のまなざし
人が生きるかたち/手持ちの力を使って,いまをともに生きる/子どもの「将来」と「教育」のまなざし
第5章 「学べない」子どもたち――学びの危機
1 明日への希望と閉塞
二つの詩から/希望の場としての学校/自分が自分でなくなる場
2 学ぶ生き物である人間が,学ぶ場としての学校で,学べない
学びにまつわる錯覚/「将来のためにあらかじめ」という発想/学ぶべきことが外からあらかじめ決められる
3 心理学の倒錯
動機づけという発想/「内発的動機づけ」ということの奇妙さ
4 学びの構図,希望の構図
第6章 いじめという回路
1 学校という場所
ある中学生の手紙/同年齢で輪切りにされた集団/学校が社会のなかで占める位置の変化
2 生き物としてのライフサイクル――〈守られる-守る〉こと,対等性を生きること
人と人との間に葛藤のない時代はない/関係の重層性を奪われた子ども時代
3 回路をなすいじめ
立ち向かえないいじめの回路/相互性がない/中心がはっきりしない/いじめる側の理屈に,いじめられる側が飲み込まれる/集団が閉じている
4 閉じた回路から開いた順路へ
おとなたちの直接的介入とその限界/学校を外に向けて開く/重層性の成り立つ場で差異を認め合う/特別支援教育の理念と現実/生活の場としての学校
第7章 学校は子どもたちの生活の場になりうるか
1 学校のまなざしと生活のまなざし
友だちのうちはどこ?/地域離れ,生活離れをうながす学校
2 学校とは何だったのか
学校は〈生きるかたち〉を伝える場であったか/学校と「富国強兵」/学校教育の階梯――身を立て名を上げ
3 子どもたちを生活へと導き入れる学びを
〈生きるすべ〉よりも〈生きるかたち〉を/学校の出番
4 遠近法のある暮らし
遠近法なき情報の空騒ぎ/遠近法世界に映る小宇宙/子ども学のまなざし
注
文献案内
おわりに――子ども学の可能性
浜田寿美男(はまだ すみお)
1947年香川県生まれ.京都大学大学院文学研究科博士課程修了.専攻は発達心理学・法心理学.奈良女子大学教授.著書に,『ありのままを生きる』(岩波書店,2009年に岩波現代文庫『障害と子どもたちの生きるかたち』と改題して刊行予定),『意味から言葉へ』(ミネルヴァ書房),『私のなかの他者』(金子書房),『「私」とは何か』(講談社選書メチエ),『自白の心理学』(岩波新書),『子どものリアリティ 学校のバーチャリティ』(岩波書店),『赤ずきんと新しい狼のいる世界』(共編,洋泉社)など.
1947年香川県生まれ.京都大学大学院文学研究科博士課程修了.専攻は発達心理学・法心理学.奈良女子大学教授.著書に,『ありのままを生きる』(岩波書店,2009年に岩波現代文庫『障害と子どもたちの生きるかたち』と改題して刊行予定),『意味から言葉へ』(ミネルヴァ書房),『私のなかの他者』(金子書房),『「私」とは何か』(講談社選書メチエ),『自白の心理学』(岩波新書),『子どものリアリティ 学校のバーチャリティ』(岩波書店),『赤ずきんと新しい狼のいる世界』(共編,洋泉社)など.