新約聖書ギリシア語入門
丁寧な解説,聖書から引く豊富な例文により,確かな読解力が身につく.活用表,語彙集,別冊解答付き.
新約の原典にふれたいと願う人,また聖書の言葉を手がかりにギリシア語を学ぼうとする人のために,文字の習得から始める入門書.丁寧な文法解説,聖書から引かれた豊富な例文・練習問題によって,確かな読解力が身につく.各講末のコラム,巻末の活用表,語彙集ほか,別冊解答付き.教科書にも独習書にも適した1冊.
■著者からのメッセージ
日頃、聖書学に携わっていて、大小を問わず、そこで得た発見を人にも分かってもらいたいと思うときがある。そのとき、僭越ながら、聞く人が多少でも新約聖書のギリシア語に通じていてくれたら、どれほど助かるかことかと感じることがある。
例えば本書のコラム「新約聖書の言葉20」(148頁)でヨハネ福音書の劈頭の文章を取り上げたときがそうである。私はそこでヨハネ1,3-4を、「すべてのことは彼によって生じた。彼なしには何事も生じなかった。彼において生じたことはいのちであった。そのいのちは人間にとって光であった」と訳している。新共同訳は「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」と訳している。どうしてこのような違いが生じるのだろうか。
その理由は、ギリシア語の原文のどこにどう句読点を付して、分節するかの判断が違うからである。今、問題の1,3-4をフレーズに分解し、便宜的に記号をつけ、原文の順番に並べると次のようになる。
A「すべては彼によって生じた」、
B「彼なしには何一つ生じなかった」、
C「生じたものは」(関係代名詞節)、
D「彼において/~の中で」、
E「いのちであった/~があった」、
F「そのいのちは人間にとって光であった」。
新共同訳はこれをA。B、C。DE。F。と分節し、私の訳はA。B。CD、E。F。と分節する。いずれもギリシア語文法に照らして可能な分節である。しかし、その意味するところの違いは大きい。新共同訳は太古における天地万物の創造のことをまず考え、そこから時間軸に沿って福音書を読もうとする。私の訳は「すべてのことは彼によって生じた」というその「すべてのこと」の中に、福音書が物語る出来事全体がすでに含まれていると考えるもので、言わば時間軸と逆向きに読んでいる。
これはキリスト教の歴史と共に古い問題で、すでに大アウグステイヌスも頭を悩ました。彼の『ヨハネによる福音書講解説教』第1巻16節は、マニ教徒たちがヨハネ1,3-4を「彼の中に成ったものは、いのちである」と分節・翻訳していることを報告した後、正しくは 「成ったものは、彼(言)の中でいのちである」と分節すべきだと言う。マニ教徒もアウグステイヌスも、私と同じようにフレーズBの後に読点を置いている。しかし、その後をアウグステイヌスはC、DE。と分節するが、マニ教徒は私と同じように、CD、E。と分節する。
しかし、それで私もマニ教徒になってしまうわけではない。私はDを「彼において」と訳すが、マニ教徒は「彼の中に」と訳す。文法的な違いは僅かに前置詞ejn(英語のin)一つをどう訳すかの違いにすぎない。しかし、その意味するところの違いはここでも大きい。マニ教徒は汎神論の意味で、万物が「彼」(神的ことば)の「中に」あって、いのちに与っていることを考える。私は神の「ことば」に「よって」いのちが歴史的な出来事となったことを考えている。
いささか細かな議論を紹介したのは他でもない、新約聖書の本文をギリシア語で読んで初めて見えてくる問題の一端を知っていただきたいからである。拙著がそのようなさらなる発見への道案内として多少でも役に立つならば、私にとってはこの上ない幸いである。可能な限り利用者にとって使いやすいものを目指したが、一番最初に最も勉強させられたのは他でもない著者自身である。大過なきことを願うばかりである。
■著者からのメッセージ
日頃、聖書学に携わっていて、大小を問わず、そこで得た発見を人にも分かってもらいたいと思うときがある。そのとき、僭越ながら、聞く人が多少でも新約聖書のギリシア語に通じていてくれたら、どれほど助かるかことかと感じることがある。
例えば本書のコラム「新約聖書の言葉20」(148頁)でヨハネ福音書の劈頭の文章を取り上げたときがそうである。私はそこでヨハネ1,3-4を、「すべてのことは彼によって生じた。彼なしには何事も生じなかった。彼において生じたことはいのちであった。そのいのちは人間にとって光であった」と訳している。新共同訳は「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」と訳している。どうしてこのような違いが生じるのだろうか。
その理由は、ギリシア語の原文のどこにどう句読点を付して、分節するかの判断が違うからである。今、問題の1,3-4をフレーズに分解し、便宜的に記号をつけ、原文の順番に並べると次のようになる。
A「すべては彼によって生じた」、
B「彼なしには何一つ生じなかった」、
C「生じたものは」(関係代名詞節)、
D「彼において/~の中で」、
E「いのちであった/~があった」、
F「そのいのちは人間にとって光であった」。
新共同訳はこれをA。B、C。DE。F。と分節し、私の訳はA。B。CD、E。F。と分節する。いずれもギリシア語文法に照らして可能な分節である。しかし、その意味するところの違いは大きい。新共同訳は太古における天地万物の創造のことをまず考え、そこから時間軸に沿って福音書を読もうとする。私の訳は「すべてのことは彼によって生じた」というその「すべてのこと」の中に、福音書が物語る出来事全体がすでに含まれていると考えるもので、言わば時間軸と逆向きに読んでいる。
これはキリスト教の歴史と共に古い問題で、すでに大アウグステイヌスも頭を悩ました。彼の『ヨハネによる福音書講解説教』第1巻16節は、マニ教徒たちがヨハネ1,3-4を「彼の中に成ったものは、いのちである」と分節・翻訳していることを報告した後、正しくは 「成ったものは、彼(言)の中でいのちである」と分節すべきだと言う。マニ教徒もアウグステイヌスも、私と同じようにフレーズBの後に読点を置いている。しかし、その後をアウグステイヌスはC、DE。と分節するが、マニ教徒は私と同じように、CD、E。と分節する。
しかし、それで私もマニ教徒になってしまうわけではない。私はDを「彼において」と訳すが、マニ教徒は「彼の中に」と訳す。文法的な違いは僅かに前置詞ejn(英語のin)一つをどう訳すかの違いにすぎない。しかし、その意味するところの違いはここでも大きい。マニ教徒は汎神論の意味で、万物が「彼」(神的ことば)の「中に」あって、いのちに与っていることを考える。私は神の「ことば」に「よって」いのちが歴史的な出来事となったことを考えている。
いささか細かな議論を紹介したのは他でもない、新約聖書の本文をギリシア語で読んで初めて見えてくる問題の一端を知っていただきたいからである。拙著がそのようなさらなる発見への道案内として多少でも役に立つならば、私にとってはこの上ない幸いである。可能な限り利用者にとって使いやすいものを目指したが、一番最初に最も勉強させられたのは他でもない著者自身である。大過なきことを願うばかりである。
大貫 隆(おおぬき たかし)
1945年生まれ.一橋大学社会学部卒業.東京大学大学院人文科学研究科西洋古典学専攻博士課程修了.ミュンヘン大学にて神学博士号取得.現在,東京大学大学院総合文化研究科教授.
『福音書と伝記文学』(1996),『ナグ・ハマディ文書』全4冊(共編訳,1997-98),『グノーシス考』(2000),『岩波キリスト教辞典』(共編,2002),『イエスという経験』(2003),「ヨハネの手紙第一,第二,第三」『新約聖書』(新約聖書翻訳委員会訳,2004)(以上岩波書店)など,著訳書多数.
1945年生まれ.一橋大学社会学部卒業.東京大学大学院人文科学研究科西洋古典学専攻博士課程修了.ミュンヘン大学にて神学博士号取得.現在,東京大学大学院総合文化研究科教授.
『福音書と伝記文学』(1996),『ナグ・ハマディ文書』全4冊(共編訳,1997-98),『グノーシス考』(2000),『岩波キリスト教辞典』(共編,2002),『イエスという経験』(2003),「ヨハネの手紙第一,第二,第三」『新約聖書』(新約聖書翻訳委員会訳,2004)(以上岩波書店)など,著訳書多数.
書評情報
信徒の友 2005年4月号