新刊

カンボジアPKO日記

1991年12月~1993年9月

内戦後のカンボジアに平和をもたらすPKOを率いた明石康氏の日記を活字化.当時の内幕を赤裸々に伝える第一級の現代史資料.

カンボジアPKO日記
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著者 明石 康
ジャンル 書籍 > 単行本 > 政治
刊行日 2017/11/07
ISBN 9784000612302
Cコード 0031
体裁 A5 ・ 上製 ・ カバー ・ 400頁
定価 本体4,200円+税
在庫 在庫あり
国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)のトップを務めた明石康氏の630日の日記を活字化する.シハヌークはじめ対立を続けるカンボジア政治家間の調整,武装抵抗を強めるポル・ポト派への説得,初の自衛隊派遣をめぐる日本政府とのやりとり,そして選挙の成功と新生カンボジアの誕生…….画期的なPKO活動の内幕を赤裸々に伝える第一級の現代史資料.
序 明石康
凡 例
主要登場人物
カンボジア地図


I [第1分冊] 船出――1991年12月31日〜1992年6月24日

ガリ次期事務総長からの打診(1991年12月31日)
正式任命の発表(1992年1月9日)
PKO運営のモットー(1月14日)
プノンペンへ事前調査に(1月22日)
フン・セン首相との会談(1月24日)
UNTAC本部の場所をめぐって(1月26日)
シハヌーク殿下を迎える民衆(1月27日)
選挙の早期実施論と延期論(2月4日)
財政の捗々しくない進行状況(2月14日)
安保理決議745の採択(2月28日)
ワシントンの政治家たちに協力要請(3月3日)
プノンペン着,UNTACの船出(3月15日)
UNTACのスタッフたち(3月18日)
難民の帰還,始まる(3月30日)
困難な地雷撤去・難民帰還(4月8日)
チア・シム人民党議長との会談(4月16日)
ガリ事務総長のカンボジア訪問(4月18日)
インドネシアとオーストラリアの隣国関係(4月21日)
ニューヨーク国連本部という障害(4月24日)
ニューヨークでの問題解決(4月29日)
アメリカ政府高官・政治家たちと(5月6日)
国会で参考人として(5月12日)
KPNLFの将来は(5月19日)
進まないポル・ポト派との交渉(5月20日)
フン・セン首相との会談(5月21日)
キュー・サンパンと2人だけの会談(5月23日)
SNCでポル・ポト派と応酬(5月26日)
日本の拠出金を増やす戦術(5月29日)
パイリンの視察妨害(5月30日)
SNCで孤立化するポル・ポト派(6月5日)
タイ軍部に協力を求める(6月8日)
シハヌークのポル・ポト派観(6月11日)
中国外務次官との会談(6月20日)
東京復興会議の開催(6月22日)
総理の昼食会と私の夕食会(6月23日)


II [第2分冊] 挑戦――1992年6月25日〜1992年12月8日

グールディングとの議論(6月25日)
ポル・ポト派についてフン・センと話す(6月29日)
キュー・サンパンという人物(7月2日)
“アジア的解決”はあるのか(7月5日)
ポル・ポト派への譲歩の程度(7月13日)
ロリドン副司令官の離任(7月15日)
ベトナム人に関する声明を準備(7月21日)
ポル・ポト派との“交渉”ならず(7月22日)
ポル・ポト派宥和に動く日本とタイ(7月29日)
選挙法の採択(8月5日)
ハノイの印象(8月8日)
日本・タイ提案と現地の留保(8月14日)
両陛下への御進講(8月22日)
日本・タイ提案への噴きだす疑問(8月28日)
プノンペン政権の内部事情(9月8日)
SNCシェムレップ会議の成果(9月10日)
フンシンペック党本部を訪問(9月16日)
ソン・サン派のタイ依存(9月19日)
日本人停戦監視員の到着(9月21日)
中国とポル・ポト派(9月22日)
発足以来の自己評価(9月24日)
エバンス豪外相らとの意見交換(9月29日)
ホワイトハウス・国務省へ(10月6日)
安保理決議のねらい(10月14日)
選挙の順序をめぐって(10月16日)
シハヌーク,日本・タイ提案を批判(10月20日)
パリ協定1周年パレードへの自衛隊参加(10月23日)
シハヌーク殿下の誕生パーティー(10月27日)
日本・タイ提案の帰結(10月29日)
シハヌーク殿下の新作映画(11月1日)
危機打開の北京会議(11月6日)
銭外相の朝食会とシハヌーク邸でのSNC会合(11月8日)
フン・セン氏との長時間対話(11月13日)
ポル・ポト派の自衛隊攻撃を懸念する日本(11月17日)
ガリ事務総長の頑固さ(11月19日)
自衛隊タケオ基地での感慨(11月20日)
素晴らしいカンボジアの風景と人々(11月24日)
タイ首相・外相との会談(11月27日)
中国の安保理決議案棄権(11月30日)
各州視察と隊員釈放(12月4日)
ポル・ポト派に対するアメとムチの併用(12月6日)


III [第3分冊] 危機――1992年12月9日〜1993年4月17日

ポル・ポト派宥和に傾くガリ総長(12月12日)
三つ目の人質事件が起きる(12月18日)
特別検察官ポストをめぐる対立(12月21日)
SOCによるUNTAC批判が広まる(12月24日)
サム・ナン上院議員と(12月26日)
選挙法改正とニューヨークの反対(12月30日)
当面する課題の大きさ(12月31日)
NHK特別番組で新年を迎える(1993年1月1日)
四面楚歌の中で(1月6日)
気の重いシハヌーク会談に臨む(1月8日)
UNTACと武力行使(1月11日)
UNTACに不満をぶつける大使たち(1月12日)
フン・セン,ラナリットらとの会談(1月14日)
宮沢総理,プラソン・タイ外相との会談(1月16日)
信頼できるアラタス・インドネシア外相(1月17日)
UNTAC幹部たちの激論に賛成(1月20日)
シハヌークの同時二選挙受諾とアラタス外相(1月23日)
キュー・サンパンと単刀直入の交渉(1月26日)
カンボジアにふさわしい憲法を(2月2日)
「外国軍隊」の問題(2月6日)
宝石モラトリアムに関するSNCの曖昧な決定(2月10日)
市民の質問に答える(2月12日)
宮沢総理-ガリ事務総長会談(2月16日)
選挙後のカンボジアは?(2月22日)
自由選挙の最小限度の条件とは(2月27日)
総選挙に臨む決意伝える(3月4日)
特別捜査権の発動(3月8日)
第6章と第7章の間のオプション(3月13日)
シソポンからバタンバンへ(3月17日)
UNTAC後のカンボジアは?(3月19日)
選挙運動の自由めぐりフン・センと対決(3月22日)
ラナリット勢力本拠地訪問(3月23日)
ポル・ポト派地域入りに武力行使すべきだったか(3月29日)
徒労感つのるSNC(4月4日)
ガリ事務総長の二度目のカンボジア訪問(4月6日)
中田厚仁君死亡の報せ(4月8日)
中田君の父親の決意(4月10日)
国連ボランティアとの話し合い(4月14日)
報道への異議を伝える(4月17日)


IV [第4分冊] 選挙――1993年4月19日〜1993年9月26日

世論か疑似世論か(4月19日)
明石暗殺計画(4月21日)
ショウクロスの報道ぶりに感銘(4月25日)
カンボジアに民主主義の種を(4月27日)
ポル・ポト派のシェムレップ攻撃と自衛権(5月3日)
邦人警察官死亡の衝撃(5月4日)
シハヌーク殿下の日和見的態度(5月6日)
日本・文民警察官の配置換え要望(5月10日)
楽観論と悲観論の激突(5月14日)
危険に敏感すぎる日本人(5月18日)
選挙日前日にシハヌーク帰国(5月22日)
嵐の夜が明け,投票始まる(5月23日)
政治の主人公になった人々(5月25日)
ポル・ポト派はなぜ攻撃にでなかったか(5月27日)
カンボジアの歴史の新しいページ(5月29日)
人民党政権内の不穏な動き(5月31日)
シハヌーク殿下の暫定政権構想(6月3日)
父と子の政治対立(6月5日)
三者政権に向かって(6月9日)
「不正選挙」批判を続けるフン・セン(6月10日)
東部3州の「反乱」(6月13日)
晴れ晴れした制憲議会の発足(6月14日)
人民党,選挙結果を受け入れる(6月21日)
トゥル・スレン収容所と社会革命の狂気(6月25日)
新内閣の承認(7月1日)
文民警察官の帰国(7月2日)
オルブライト,傅瑩,山崎隊長などと(7月6日)
カンボジアの新憲法作り(7月7日)
安保理非公式会合で報告(7月12日)
ワシントンでの会合の数々(7月20日)
UNTACの教訓(7月21日)
東京での感想の数々(7月25日)
宮沢総理の質問攻め(7月27日)
UNTAC撤収に向けて(8月2日)
タイとのややこしい関係(8月5日)
ラナリット,フン・セン両首相と(8月10日)
タケオの自衛隊基地訪問(8月12日)
シハヌーク殿下の「くせ」(9月4日)
カンボジア復興国際委員会(9月8日)
ラナリットとフン・セン両首相の送別宴(9月15日)
EP-5による送別の宴(9月18日)
新憲法の採択(9月21日)
邦人記者団のUNTAC評価(9月23日)
憲法公布と国王就任(9月24日)
最後の晩餐会(9月25日)

[解説] 石原直紀
明石 康(あかし やすし)
1931年秋田県生まれ.東京大学教養学部卒業.57年,日本人初の国連職員に.事務次長(広報担当,軍縮担当,人道問題担当)等を歴任.92年より国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)事務総長特別代表,94年より国連旧ユーゴ問題担当事務総長特別代表を務める.97年に国連退任.現在は国際文化会館理事長.
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