「岩波の志」/理念/会社概要

 1993年、国内でのインターネットの商用利用が開始されて以降、IT(情報技術)は急激な発展を遂げてきました。いまでは世界中の情報に、私たちはPCやスマートフォンをメディアとして簡単にアクセスできます。このイノベーションは、列島に暮らす私たちの生活やパラダイム(認識の枠組)のみならず、世界中の政治、経済、社会、文化のあらゆる面に、多様かつ広汎な変容をもたらしました。
 現在では当然のこととなったIT環境のもと、かつてとは大きく異なる時間・空間感覚のなかでコミュニケーションを図り、物事を理解、判断し、対応することを私たちは求められています。そのため最尖端の情報、フローな情報を追いかける一方で、ストックされる知識、これまで「教養」と呼ばれてきたものは軽視せざるを得ない――それが私たちの現状ではないでしょうか。

 しかし、文化が直線的に発展するものではなく、人類による過去の知的蓄積を参照しながら螺旋状に展開していくものであるなら、私たちに残された遺産、そしてそれがかたちづくられた歴史的な経緯についての正しい認識は、なによりも重要であると考えます。そのような認識がなければ、私たちを取り巻く現状を正確に捉え、未来を展望することはできないからです。
 瞬く間に流れ消えてゆく膨大なデータや、体系性をもたない知識をいくら集めたところで、いま求められている確かな選択と未来への可能性には結びつきません。私たちが直面している現在の課題を歴史的な文脈で捉え、地球規模の広がりのなかで考察することが喫緊の課題となっています。

 ストックされる教養に重きが置かれなくなったのは、ITがもたらした情報環境の変化のためだけではありません。グローバル化の急激な進展も大きな要因のひとつでしょう。グローバルな市場化のビジネスモデルが、これまでの学知のあり方だけでなく、大学での教育内容にもそれに対応した変更を迫った結果として、教養的なものが周縁化されることとなりました。
 そして教育の場以外でも、社会全体が市場経済における利益重視へシフトするのに連動して、資格のあり方や就労形態などが見直され、経済成長には即効性がないとみなされた教養や人文知を軽視する声を耳にするようになります。
 それがなにをもたらしたのかといえば、公共性の危機にほかなりません。

 公共性は人種や文化、言語や階級、ジェンダーなど、様々な差異をもつ他者を尊重し、自分たちに係わる重要な問題について省察し、討議し、合意を形成できる市民の存在を前提としています。そして、そうした公共性を支える市民に必要とされる批判的思考と、他者に対する想像力の涵養かんようを担ってきたのは、人類がこれまで積み重ねてきた叡知としての教養、人文学的な知にほかなりません。しかし、その教養にいま、かつての力はありません。私たちが眼前にしているのは、ITが駆動するメディアとコミュニケーションの変容とが連動した「ポスト・トゥルース」の世界です。

 グローバル化とは、ヒト、モノ、情報の自由市場化という経済的な側面に限定されるものではないことを、私たちは知りました。病もまた、瞬く間に国境を越え例外なく伝播してゆく――それがパンデミックという、私たちがその渦中にある大きな出来事が明らかにしたことのひとつです。さらにコロナ禍は、ソーシャル・ディスタンス――「感染回避のための距離」の確保というだけではない、様々な社会的な「へだたり」=格差の存在をも、いっそう浮き彫りにしたのでした。

 確かに、行動の制限と「へだたり」の発生にともなってコミュニケーションの形態も大きく変わり、急速に発展したソーシャルメディアを背景に、物理的な距離を乗り越えた交感の空間も生まれています。しかし、そのオンライン空間がだれに対しても開かれたものではないことも、また事実です。たとえば教育を受ける機会においても、必要な情報端末を有する者とそうでない者、その運用能力の程度など、それぞれが抱える条件によって知識格差が生じ、それが再生産されるだけでなく、固定化されようとしているのが現状のようにみえます。
 こうした様々な「へだたり」が列島に暮らす私たちを分断する一方で、グローバル化はそれとは別の文化横断的な体験をもたらしました。地理的、歴史的、社会的にへだたっている地球上のどのような地域も例外なく、もはや異文化と無関係に存在することはできません。
 国境の内外を問わず、いろいろな場面で、かつて経験したことのない種々の軋轢あつれきが昂進しつつある現実の世界において、私たちに必要とされているものとは、なんでしょうか。
 それは、開かれた市民社会としての公共性の形成と成熟に不可欠な批判的思考であり、自分とは異なる文化的、社会的境遇にある他者を理解できる共感の力、すなわち他者に対する想像力でしょう。

 一体、私たちは、文化的、社会的に異なる境遇を生きる他者を、自分と同じような内面や精神的な深みをもつ一個の存在として認識し、共感することができるのでしょうか――その問いへの鍵となるのが、他者への想像力をかたちづくる教養であり、公共性なのです。
 公共性は、自分とは異なる存在を対話可能な相手として尊重できる者によって支えられています。そして文学、芸術などを含む人文学的な知だけでなく自然科学的な知をもべる全体知、つまり人類がこれまで蓄積してきた叡知=教養は、そのような、他者に共感する想像力を育み、公共性を担う市民を形成するための核となる――私たちは、そう確信しています。その叡知=教養はまた、これからますます複雑化する社会を生き抜いてゆくための実践的な能力に資するものであり、私たちの日々の暮らしを彩り、楽しませ、心を豊かに育んでくれるものでもあるのです。

 ソーシャルメディアの出現によって社会的なコミュニケーションは地球大に拡大し、そのあり方は急速に変容しました。それにともなって、既存メディアのあり方も問われています。こうした激変するメディア環境において、教養(=叡知)と社会をつなぐことが私たち岩波書店の役割であるなら、そこで問われていること、求められるものとはなにか。教養と出版、そして社会――この三者のあり方は、どうあるべきなのか。

 先述のように、教養、その基盤となる人文知を供する出版の基本的な役割は、公議輿論よろんに資する、批判的公共性を自らも担うとともに、この公共空間へ参加する、他者への共感力ある市民に寄与することにあると考えます。
 そのような自覚のもと、いま出版が教養と社会をつなぐと言うとき、激動する世界情勢のなかでこの列島が直面する課題への確かな視座とはなにか。断片化された知識の大海に臨み、なにが《真》であるのか。なにを私たちの思考と行動の指針とすべきか。――それを自らに問うとともに、読者にも問いかけていきたい。
 そして、そのために、確かな学術的背景を基礎として、読者の判断の規準となるべき、歴史に根ざした厚みのある叡知を、書籍としてだけでなく様々なかたちで提供していきたい。
 開かれた市民社会のための叡知=教養と、それに根ざした文化を支える企業でありたい。
 私たちは、そう願っています。

2021年6月1日

代表取締役社長
坂本政謙

◆Mission(使命)

「種まく人」として

わたしたちは、一冊の書物が人生を、世界を変えることを信じ、その重みを感じながら、優れた学術や豊かな文化をあまねく読者に誠実に届けることで、思考や想像や対話を支え、自由で尊厳ある世界の実現に寄与します。

◆Value(価値観、約束)

誠実につくり、誠実に届ける

わたしたちの出版活動がもつ影響力と社会的責任を自覚し、信頼に応える仕事をします。わたしたちが社会に投げかける問いは、わたしたち自身にも投げかけられることを常に意識します。

主体的に考え、自律的に動き、共に学び合う

社会の課題を的確に捉え、可能性を信じて変化をおそれず、勇気をもって挑戦します。互いの多様性を認め、それぞれが得た知見や積み重ねた経験を広く共有し、学び合います。

支え合い、協働する

表現者から読者まで、つくり届ける出版という共同事業に携わるすべての人を尊重します。社会的企業として、地球環境に配慮し、持続可能な未来へ向けて努力し続けます。
「種まく人」のレリーフ 創業者岩波茂雄はミレーの種まきの絵をかりて岩波書店のマークとしました.茂雄は長野県諏訪の篤農家の出身で,「労働は神聖である」との考えを強く持ち,晴耕雨読の田園生活を好み,詩人ワーズワースの「低く暮し,高く思う」を社の精神としたいとの理念から選びました.マークは高村光太郎(詩人・彫刻家)によるメダル(左写真)をもとにしたエッチング. 「種まく人」のマーク
【会社名】 株式会社 岩波書店
【本  社】 〒101-8002 東京都千代田区一ツ橋2丁目5番5号
電話  番号案内  03-5210-4000
【社  長】 坂本 政謙
【社員数】 135名
【創  業】 1913年8月5日
【会社設立】 1949年4月30日
【資本金】 9000万円
【適格請求書発行事業者登録番号】 T6010001010826

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