巻 頭 言・2004年1月号

化学物質と環境健康学

鈴木継美
(すずき つぐよし 東京大学名誉教授(人類生態学))

 2003年3月にPRTR(化学物質排出移動量届出)制度による初めてのデータが纏められた.準備段階での試行の時から分かっていたことではあるが,トルエンなどの化学物質が多量に排出されていることを改めて強く印象付けられた.この制度における対象物質は,人の健康を損なう又は動植物の生息もしくは生育に支障を及ぼす恐れがあると認められるもので,その判断は専門家の意見を土台に国民からの意見も聞いて行政によって実施された.細部については環境省が作成した『PRTRデータを読み解くための市民ガイドブック』に譲るが,この制度において排出量は事業者からの自主的届出に依拠し,その上でその他の条件についての行政の推計値を加えて作成されるという新しい手法が用いられている.
 化学物質別,地域別,事業者別のデータも取り出すことが出来,これまでの規制的手法でなく,関連する各セクターのそれぞれが自主的に環境化学物質のリスクを減少させる対策を進めることを期待していること,人の健康だけでなく動植物の生存にも配慮していること,等,間違いなく新風が吹き込んだとの感がある.さて環境化学物質についてより詳細な情報――今後さらに精度が良くなるだろうとの期待も込めて――が提供されるようになっていくのに対応して,健康情報,生態学的情報はどのように変化しなければならないだろうか.健康情報,生態学的情報のそれぞれの変貌は,環境化学物質についての情報と統合され,解析されることによって促進され,「環境健康学情報」へと転化していくだろうと考えられるが,そこで厳しい質問が待ち受けている.一体どこの誰がそのようなデータの統合化と解析を担当するのかと言われるに違いない.環境省の作った上記の市民ガイドブックは「PRTR制度は,簡単に言えば『化学物質の排出,移動量に関する情報を集計し,公表する』というだけのきわめて単純な制度・・」と述べ,国,地方自治体,企業,市民,NGOが,それぞれの役割を果たすべきと指摘しているが,ここでは専門家は――それぞれの専門に触れるどころか――どこにも出てこないという特徴がある.これまでの専門分化した人材育成の制度の中からは必要なタレントを持った人材は育っていないということを反映しているのだろう.PRTRデータが単に集計,公表されただけでは何の意味もないことは言うまでもない.これからどのように使われていくか,人と野生生物,生態系を対象として注意深い個別の研究が組織されなければならない.そのような総合的で長期にわたる広義の「環境健康学研究」が必要であるが,ポストゲノムの段階に入った現代生物学・医学の展開は,事によるとこれまでの古典的・分析的研究の枠を脱して,新しい総合性のある(自然科学,社会科学,人文科学といった垣根も外した)研究を生み出さないだろうか.

*無断転載を禁じます(岩波書店‘科学’編集部:kagaku@iwanami.co.jp).

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