巻 頭 言・2005年1月号

「いただきます」の意味

小長谷有紀
こながや ゆき 国立民族学博物館(文化人類学)

 私たちは食事のたびに「いただきます」といいながら軽く手を合わせる.いったい何をいただいているというのだろうか.そんな問いをわざわざ考えなくてもよいほど,「いただきます」は日常的な習慣となっている.料理や食材を作った人びとに思いを致し,その労働を頂戴している,という了解もありうるだろう.しかし,その原義はそもそも多種多様な動物や植物の「いのち」をいただいているという意味ではなかったか.こうした認識は今日ますます重要であると思われる.地球上で1人勝ちをつづけてきた人類がいよいよ引責しなければならない現在,最も重要な認識とはこうした謙虚さではないだろうか.
 私が長年フィールドワークをしてきたモンゴル草原の住人たちは,春になると子ヒツジの出生ラッシュを迎える.なかには母ヒツジに嫌われる子ヒツジもいる.するとただちに人びとは,母ヒツジに歌をうたって授乳するように勧める.「乳房が張って痛いだろう.そばにいる子にどうしてやらないのか」とアドリブで歌をうたい,「トイグトイグ」とかけ声をかける.これほど手をかけて育てた子ヒツジを,いずれは屠り,解体し,食べる.いったい彼らは可愛がって育てた動物たちとどのように折り合いをつけているのだろうか.
 越冬食糧として家畜をまとめて屠るとき,人びとはウシの頚骨を用いて儀礼をしていた.たとえば「殺されたところから生まれなおして来い」などと,家畜の代表者であるウシに対して厳命し,死を契機に再生を祈願するのである.このときの祝詞にはいくつかのパターンがあり,なかには「年を取って喉に草を詰まらせて窒息して死んだ」などと宣言するものもある.殺したことには言及せずに死んだことにしようという暗黙の了解があって,言語をもちいた儀礼的な操作によって事実を覆い隠そうとする.
 こうした習慣について,殺しに対する罪の意識があるから隠す,と見なすこともできよう.しかし,彼らは実際に謝罪などしない.そもそも謝罪しなければならないような罪は存在していない.それどころか,個体が死ぬおかげでどんどんと新しい命がたくさん生まれるのであるから,死は元来,寿ぐべきことなのである.死んだと宣言することでいのちをまっとうさせることができ,それゆえに多くの別のいのちたちに転換される可能性が開かれる,という世界観のなかで,このような文化的な詐欺が成立している.
 こうした考え方はたしかに,いかにも手前勝手な正当性の主張ではある.しかし,人間であるがゆえに他の生命を奪っても良い,という人間中心主義には陥っていない.あくまでも動物の再生産サイクルを思いやるという点で謙虚ではあろう.
 今日,私たちは概して,食べる次元から作る次元までがあまりに遠く隔たっているために,「いただきます」の意味を実態的に感じることができなくなっている.だからこそ,知識で,情報で,謙虚さを獲得しなければならないであろう.そうしなければ,「食の安全」を守ることなど到底できそうにない.なぜなら,科学はつねに「未必の故意」に満ちているからである.食をめぐる科学も例外ではあるまい.未来を開く可能性がつねに危険性と背中合わせに同居していることを実は最も精緻に知りながらも責任を回避する心理が働きつづけるならば,いつのまにか,食べることが死ぬことへの最短距離になってしまうであろう.「いただきます」の謙虚さは,現代科学にこそ必要なのではあるまいか.

*無断転載を禁じます(岩波書店『科学』編集部:kagaku@iwanami.co.jp).

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