読む人・書く人・作る人(2018年5月号)

時をかけるエーコ

筒井康隆


 私より二歳年上のウンベルト・エーコはこの自伝的小説『女王ロアーナ、神秘の炎』の主人公ヤンボと同じく、そして私と同じく日本の同盟国だったイタリアで戦争と敗戦を体験していて、彼ら即ちエーコとヤンボが見聞きした多くの大衆文化も私と共通だ。のっけからジャンルを問わぬ多数の懐かしい書物名の頻出に驚くが、読み終えてみれば想像した通りこれは本についての本、小説や漫画や映画など虚構についての虚構だった。

 アメリカの新聞の日曜版に掲載されていた多色刷りの漫画ディック・トレイシーやリル・アブナーも、私の場合はサッド・サックやナンシーにより惹かれたのだがずいぶん愛読したものだ。その他ポスター、挿絵、装幀など当時のあらゆる図版がフルカラーで贅沢に満載され懐かしさと展開に奉仕している。

 複数のテーマ、いくつかのモチーフの中に記憶を覆い隠すものとしての「霧」が含まれているのも嬉しかった。まさに今書いているこちらは歴史を覆い隠すものとしての「蒙霧升降」という作品とのセレンディピティなのである。神学のくだりも書いたばかりの長篇のテーマに重なって好ましく懐かしい。事故によって「失われた時を求める」古書店主の主人公の記憶が、その顔を思い出せない青春時代の恋人リラとのエピソードを頂点に切なさを加える。横書きであり、文章は現実と記憶と虚構のあれこれが重複して書かれているため甚だ読みにくいが、そこにこそこの世界の深淵がありこの作品宇宙のただならぬ凄味と最後のクライマックスの感動がある。

(つつい やすたか・作家) 

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