思想の言葉(2017年5月号)

「近代」と「世界史」

ジョン・ポーコック

1
 現在のところ、われわれが知りうる限りでは、「モダン」(“modern”)とか「モダニティ」(“modernity”)という用語は「西洋」(“western”)の、あるいはまた、欧米(Euro-American)の歴史学(歴史叙述)において初めて使われたと思われるが、この用語が練り上げられ、批判・検討されて、様々な形の使われ方をしていったのも、その言葉が使われたのと同じ文化圏であり、そうでなければ、その言葉を取り入れた他の文化圏、あるいは、そうせざるを得なかった文化圏においてであった。だから、この言葉は、欧米の文化圏に蓄積された遺産として、またこの言葉を読みかえて取り込んだ他の世界の歴史叙述のなかにも見出しうるのであるが、他の文化圏の背負ったこの言葉の重荷は、欧米のそれとは、違ったものになるだろう。というのは、この言葉とその理解の仕方は欧米の歴史叙述における独自のものであり、他の文化圏に深く根付いたものでもあれば、次のことを追究することが求められるだろう。この言葉がいかなる理解を他の文化圏にもたらしたのか、また、この言葉が取り入れられ、根付いたことで、他の文明の文化圏で使われる言葉とどう交わるのか、欧米とは異なる歴史を持つだけに注意を払うことが当然のこととなるだろう。
 欧米文明は、伝統的に、また、無理のない一貫した根拠によって、その歴史を、欧米文明に先行した地中海文明との関わりのもとで、理解してきた。それゆえ、われわれ欧米文明圏の人間が、次のように理解したからといって何ら驚くにあたらないのである。つまり「モダン」という用語の元々の意味は「古代」(ancient)という言葉に対置されたものであったということ、そして「古代」は、普通にはギリシアとローマの文明あるいは、それら文明の固有のものを意味したということである。そうはいっても、「古代」というのが存在したのであれば、当然のことながら「古代」文明は、どこかの時点で終わったということができるだろう。だが、終わったとはいえ「古代」は、それを継承し、それに続いた文明にとって、権威を持ちつづけたのである。「古代」を引き継いだ文明が「モダン」と呼ばれるのであれば、逆説ともいうべきことに、「モダン」はそれが成立した時点で既に、その先行文明、「古代」との複合的な関係を持つものと理解された。「古代」と「近代」という用語は、それが成立したその当初の時点において、歴史的に手の込んだ、よく練り上げられ、磨きのかかったものであった。
 エドワード・ギボン、この『ローマ帝国衰亡史』の著者にとって、「近代」は「古代」の終わったところで始まった。それをギボンは、皇帝コンスタンチヌスがキリスト教をthe civil religionとして帝国内で容認した時と定めた。コンスタンチヌスがそうしたのは文化的考慮であるよりは政治的なそれであった。つまり、教会が、それまでなかった新しい権威の構造をその内部に持つものであり、コンスタンチヌス帝が容認したのを契機に教会と帝国との共存関係が始まり、帝国とシヴィル・ソサエティの権威と一体になった。ギボンはその後、「モダン」が成立したとするもうひとつのモーメントを定めた。そこで、「近代」史が始まり「古代」史が終わったというのである。それは、とりもなおさず、シャルルマーニュがローマ教会での儀式によって皇帝であることを宣言したという史実による。そのことによって新しい形の帝政(国)が生まれたのだが、それを契機に教会と時を経ずして権威上の競合関係を余儀なくされる。ギボン以外の同時代の歴史家たち、ヴォルテールとかスコットランドのウィリアム・ロバートソンなどは、コンスタンチヌスかシャルルマーニュかのどちらかを「モダニティ」の歴史における聖俗共存関係の成立とみなして、どちらかを選ぶことになる。これは、深刻でおそらくは他では見られない欧米的な思考の仕方であり、また現在の欧米圏での考え方である。「モダン」という用語の指標を歴史から聖なるものが排除されることにもっぱら求めるやり方とは、全く異なるのである。イスラム圏は、今なお聖なるものの排除を恐れ、抵抗し続けている。ということは、欧米以外の他の文明圏では、聖なるものが制度上の権威として存在してこなかったということで、俗なる世界のそれと同じものではなく、当然、西洋の教会の権威とは異なり制度上の大掛かりな排除を必要としなかった。
 しかし現在では、われわれは「モダン」という言葉を「古代」という言葉よりも「中世」(medieval)という用語に対置して使うようになっている。ギボン自身もまた、その根拠を明らかにしないで「中世」(middle ages)という用語を使うのである。この言葉の意味を探ってみると、ギボンの場合は「バーバリズムと宗教の勝利」という表現を用いて一〇世紀から一二世紀の間に起こったことをそう言い表しているのであり、それはヨーロッパ史、とくにヨーロッパ大陸の西部における、封建制の慣習・ローマ法とローマ教会によって組織された優勢に立つキリスト教聖職者との間の対立・抗争であった。歴史は、聖俗の共存をめぐる従来の構図の中におさまるものであったが、そうはいっても「古代」にはこのような聖俗の抗争はなかったし、「モダン」の前史であると同時に「モダン」の一部分であり、キリスト教成立以前の文化としての圧倒的権威を持ち続けた。他の文明において宗教がこれほどまでにその位置を占めたことはなかったし、また歴史の構図においてだけでなく、歴史そのものの本質にまで及んだことはなかった。
 今や、われわれはいかに「モダン」が、現在使われる意味での「モダン」になったのかを問わねばならないだろう。この「モダン」は、聖なるものとの対立・抗争を乗り越えた所でなく、聖なるもの、それ自体を追いやってしまったのである。「プレ・モダン」の偉大な歴史家たちはこの変化をうながしたものに二つの指標を求めた。ひとつは、ほぼ一五〇〇年頃として、領邦君主制であったスペイン、フランス、遅れてイングランドが貴族層を抑え込んで国家というシステムを確立したということ。もうひとつは、一七〇〇年と一八〇〇年の間に、それらの国家が商業社会を成立させて、財政と軍事力とを掌握することで、内乱の種となる宗教の分裂抗争に終止符を打ったことである。啓蒙の光と寛容が行き渡ったことで、宗教は社会の個人問題として国家の歴史に介入することをやめたのである。
 ヨーロッパの「アンシャン・レジーム」は、事実としてそれ自体モダンであり、啓蒙期の制度と信じられた。その結果ヨーロッパは、バーバリズムと宗教の勝利した過去の歴史を充分に克服することに成功した。そうはいっても一八世紀の終わりになると、新しい革命的な勢力が反動勢力と対峙しながら、国家間のあたらしい世界秩序を生んでいくことになった。諸国家は帝国主義的支配を目ざして工業技術や人民の大量動員などの手段によってそれを実現すべく競い争った。日本が一九世紀半ばに、また、中国は二〇世紀初頭に列強入りを目指したのである。欧米で出来上がった世界史の枠組みの中で、他の支配の手段とともにアジアまでを取り込んだのだが、フランス革命と帝国主義支配はドイツや英語圏の反革命と一緒になってその言葉のすべての意味において「モダン」の暦史の幕開けとなり、一五〇〇年以後の歴史は「初期近代」(early modern)としてそれへの序奏となった。これは更に二〇世紀における二つの世界大戦において、その時代は終わり、それから「モダン」は、革命と反革命の「ポスト・モダニティ」に道を譲り、われわれは、今その時代に生きているのである。

2
 ここまでの「モダニティ」という用語についての大まかな歴史は、この言葉の持っている途方もない文化的な意味合いの蓄積を無視しており、この言葉はネオ・ラテン、「西洋」、欧米での歴史叙述において使われてきたものである。この歴史で強調したことは、この歴史叙述がいかに緊張に満ちたものであったのか、個々の歴史叙述の、あるいはそれらのつながりの内部で様々な力関係のあり方によって異なったとはいえ、それでもそれら相互の抗争は絶え間なく様々な危機状況を生み出して、先行する対抗関係にあった人々の予想もしない、しかし連続性をもつ結果をもたらした。「モダン」と「モダニティ」という言葉が初めて使われた歴史叙述に込められた意味合いを明らかにするには、なによりも二つの緊張関係をとりあげなければならない。ひとつは、聖と俗、皇帝支配と教会、国家と宗教の抗争という一連の緊張関係。もうひとつは、(これについてはこれまでほとんど触れられることがなかったが)政治的存在としての個人と共同体において組織された軍事力との関係である。軍事力は西洋の歴史の変化のなかで古代の自己武装した政治的存在としての市民軍に始まって、封建制の下で編成された軍事力、必要に応じて利用された傭兵、最後に軍事力として大量に人民が動員された多様な近代国家の軍隊へと移り変わった(今では、国家それ自体の存在と同様に、おそらく、無用になっているだろう)。「初期近代」から「モダン」への移行を可能にしたものは、国家が職業軍人で編成された軍隊を擁し、それが国家の道具となり、革命や帝国主義的支配の手段ともなったことである。この転換は、やがて力による破壊力があまりにも強大化したことで、今では、戦争も「国家」もその在り方の有効性があいまいになっている。
 今ここで述べた二つの緊張した対抗関係が、欧米的意味での「モダニティ」の発展にとって決定的なものであるなら、この「モダニティ」という概念が、この二つの緊張関係を持たない他の文化圏の歴史叙述に取り入れられたら、どういうことになるのだろうか。新しい別の緊張関係とか、なにか別のパラダイムを見つけ出して様々な文化圏の歴史や歴史叙述に生かさなければいけないのか。そういう別のものが発見されなければそのような歴史や歴史叙述は、歴史として認知されないのだろうか。ギボンは、ビザンチン帝国には、その種の歴史がないと考えた。なぜならビザンチンは、ローマの歴史を引き継いでいかなかったからである。ヘーゲルは、ローマとゲルマンの世界が持った歴史に見合ったものを、他のいかなる文明圏も持たなかったとした。そうなると、中国や日本のような場合、何世紀にもわたって、いくつもの重厚な歴史叙述を持っているのだから、なにか他の緊張関係の存在を、あるいはそういうものに代わる別のものの存在を確かめなければならないのだろうか。そうでなければ、歴史は理解できないものなのだろうか。目下、ひとつの企図、いくつかの歴史叙述の世界史〔1〕という史学史を構築する企てが進行中である〔2〕。それは世界史を成立させる本当の核心となるものは何なのか、世界史はどこで成立するのだろうかということを問おうとするものである。
 今、この試論を書いている筆者は、日本の歴史についてほとんど知らないのだが、次のことについては理解を得ている。(1)この文化圏では「近代」史は、明治の復古(もしくは革命)によって始まったとされていること。(2)日本の歴史家は、徳川期の日本を欧米の「初期近代」に当たるような用語を使って記述しない。西洋の歴史において一八世紀の国家によって統制された「常備軍」の登場は、近代化(modernization)の強力な手段と見られている。その根拠のひとつは、それが内戦時代に終止符を打ったことであり、もうひとつは常備軍の形成は革命と帝国主義支配と全体戦争(total war)への動きを促進したからである。〔これに似たことが〕徳川期にあったといえるものがあるのではないだろうか。それは、幕府が武士階級と大貴族層との結びつきを断ち切って一八六八年から一九四五年に至る近代化とミリタリズムの道を開いたというようなことはなかったのかということである。ここで得たことは、そうはいっても論ずるには及ばないことであって、この試論の本筋に関わるほどのことではない。
 欧米の歴史において使われる「モダン」とか「モダニティ」について、この試論が日本の読者に向けて言おうとしたことは、どこまでもヨーロッパ中心の議論であって、それ以外の何物でもない。「モダン」も「モダニティ」も、いずれも「西洋」の言語圏内部から生まれたものである。これらの言葉の出現は、様々な力の働きによって生まれたもので、そういう力は、止まることを知らない、それ自体自己完結したヨーロッパ史の内部から独自に生み出された。だから、イスラム圏や儒教圏に共通性を求めて、この二つの言葉を説明したり定義する必要はないのだ。「モダニティ」という言葉が誕生し、批判・検討されて、ヨーロッパの歴史の構成要素として、何か別の言葉にとって代わられつつあるのかもしれない。たとえ世界の他の文化圏の歴史が、この過程に巻き込まれていようが、それは別の事柄に属することだ。欧米が他の文化圏の歴史を支配したことは、欧米自身の「モダニティ」を作り上げているのと同じ程度に、損ないつつあるとも見ることができるだろう。そういう可能性を最初に指摘したのは『両インド史』におけるアベ・レナールとその協力者たちであり、アメリカ革命前夜のことであった。とはいえ、彼らは自分たちの歴史以外の他のいかなる歴史も視野に取り込む必要などなかったのである。この場合とは違って、日本の歴史において「モダニティ」について語るには、それは一八六八年に始まるとされるのだが、そこに起点を置くのは相異なる歴史間の遭遇があったからである。この時点の日本人は周知のごとく、日本と異なる別の文化に出会っていたのである。その異文化は非常に強力なものであったから、必要上まず模倣し、次いで取り入れたのである。このような行動は、「上から」主導されたかなり早い機会におけるいくつかの文化的変容と、日本史において同時進行したものであった。だから次のようにいうこともできる。つまり日本人は西洋人と違って、日本の歴史とは違った、新しい歴史を自分たちが取り込んだということをよく知っていたということである。だから今や日本人自身、自らに問われなければならないのは、別の歴史をやむなく取り込んだことで、それまでの日本の歴史はどう理解されたのかということだ。これらのことが、日本の文化と歴史叙述において「モダニティ」の意味するところであるならば、こう付言しなければならないだろう、われわれ欧米人にはそういう意味付けは知るところではなく、それが日本人に我々の歴史を注目させたということも、また、知るところでなかった。欧米人は、自らの「モダニティ」を他者の成果とは見ないで、たとえば先行したローマの歴史のように、おそらくは西洋人の生み出した「モダニティ」の成功の破壊的な効果とみて西洋の外にある人たちとその歴史が欧米人の歴史のなかに吸収されていったと理解した。「モダニティ」それ以上に「ポスト・モダニティ」をグローバリゼーションと同一視することは可能であるし、また自らの亡びをよろこびとする者にとっては好ましいことですらあるだろう。その結果、それぞれの歴史が巨大なものに飲み込まれて、個々の歴史がそれ自体個別に記述され、解釈され、独自に成立することを止める地点に立ち至って、すべては同一視されて相対化と商品化(等価のもの)されてしまうことである。われわれは、この意味での「モダニティ」を強く望まないとしても、様々な前近代(premodernities)のあり方を批判検討して理解すること、つまり、どのようにして様々な前近代のあり方が近代化して、われわれ欧米人のようになったのかということを知ることは、ひとつの有効性のある道具となり、文字通りひとつの武器になると思われる。

 訳 注
〔1〕 ポーコックは、雑誌『みすず』(二〇〇六年一・二月号)の「二〇〇五年読者アンケート」に答えて、「私が今まで読んできた中で、もっとも傑出した世界史」として、C. A. Bayly, The Birth of the Modern World, 1780-1914: Global Connections and Comparisons, Blackwell, 2004をあげている。
〔2〕 この「企て」は、ポーコック「政治思想としての歴史叙述――ある研究計画の形成についての報告」(坂本達哉・長尾伸一編『徳・商業・文明社会』、京都大学学術出版会、二〇一五年、一五-三〇頁)にうかがうことができる。
(訳=佐々木武)

J. G. A. Pocock, “Definitions of modernity in world historiography”
Copyright (C) 2016 by J. G. A. Pocock/Translated by permission of the author

カテゴリ別お知らせ

ページトップへ戻る