新井 卓

 ──なにかが起きた。でも私たちはそのことを考える方法も、よく似たできごとも、体験も持たない。(中略)なにかを理解するためには、人は自分自身の枠から出なくてはなりません。
感覚の新しい歴史がはじまったのです。
(スベトラーナ・アレクシエービッチ『チェルノブイリの祈り──未来の物語』松本妙子訳、岩波現代文庫)
*  *
10歳かそれくらいのころ、小学校でイギリスのアニメーション『風が吹くとき』(レイモンド・ブリッグズ原作)の上映会があった。核戦争の勃発を境にカラー映像がモノクロへと入れ替わり、善良を絵に描いたような夫婦・ジムとヒルダが、目に見えない被曝を受けてシェルターでゆっくりと死んでゆくその一部始終を、どういうわけか、いまでもシーンごとに仔細にわたって覚えている。
70年代末川崎に生まれ育ち、真夏にはくり返し発令される光化学スモッグ注意報のため屋内で過ごし、ある日はピンク色、また別の日には鮮緑色へと色を変える工業排水路でザリガニを釣って過ごした私たちにとって、汚れ滅びゆく世界のヴィジョンは、あたりまえの感情として生活の基部に流れていた。
6年前、東日本大震災の混乱を伝えるテレビに、唐突に映し出された映像──原発の建屋が音もなく弾け飛び、空高く白煙が上がるのを目にしたとき、呼吸が止まるような激しい焦燥のなかに「やはり」と合点する心があったのは、そのように過ごした子ども時代のわたしが、まだどこかに息づいているからかもしれない。
その夏、得体のしれない衝動に駆られ何度も飯舘村に足を運んだ。そこで見たものは、本来ならば稲葉が青々とそよいでいるはずの、干割れて雑草に覆われた水田、そして、思いのほか手入れの行き届いた家々の庭(いつか帰る日に備えて、家主たちは折を見て手入れをしていた)だったのだが、その中でもひときわ記憶に焼き付いて離れないのは、動物たちの姿である。食べものを求めて延々と車を追ってくる痩せ猫や、線量計が狂ったように鳴りつづけるダム湖で、斜陽に全身を黄金色に輝かせながら、堂々と斜面を下ってくるニホンザルの一群。車で山あいの隘路を進むと、向こうから野犬の群れが徒党を組んで走ってきた。遠くへ避難した飼い主を探し求め、ただひたすらに疾駆しているのだろうか。口の端から泡を飛ばしながら、血走った眼で、立ち止まりもせず一陣の風のように通り過ぎてしまった。犬たちは、ただ「どうした、どうした、」そう吠えつづけながらいきり立つように見え、またそれは、じりじりと焦燥感に焼かれながら山野を巡る、わたしたち自身の声のようにも聞こえるのだった。
福島第一原発事故から今年で6年、チェルノブイリから31年、広島/長崎から72年になる。すでに4世代にわたってわたしたちが編みつづけてきた最期の神話──原子力時代(アトミック・エイジ)の神話は、未だそれを語り得る言葉を持たない。
わたしたちが待望するその言葉は、しかし、政治や経済、報道の華々しい言葉のうちにあらわれることは決してないだろう。なぜなら〈未来の物語〉のための新しい言葉は、アレクシエービッチや、同じ地平で石牟礼道子が試みたように、声低く細部から生まれ、それと知れずわたしたちの魂の中に拡散していく力を持たなければならないからだ。
(あらい たかし・写真家)

カテゴリ別お知らせ

ページトップへ戻る