中 村 純

常世の仄明かりとは あかつきの蓮沼にゆるる蕾(つぼみ)のごとくして 世々の悲願をあらわせり かの一輪を拝受して 寄る辺なき今日(こんにち)の魂に奉らんとす
(石牟礼道子「花を奉る」)
*  *
2012年春、東京の勤めを辞めて小さなひとと京都に移り棲んだ。職を手放し、慣れ親しんだ家を離れざるを得ない、生活の目処の立たぬ自力転居であっても、東京出身者は無垢に〈ふるさと〉などという言葉で東京を語れるはずもなく、私は3.11から涙を封印した。
「東京の電気のせいで福島が被曝させられた。」 福島出身者に喉元に突き付けられた〈東京〉に既視感を覚えた。〈東京〉に象徴される都市文明が、自然とともに生きるいのちの尊厳を傷つけ、奪った。
石牟礼道子さんは、水俣にとって近代化の象徴であった〈会社=チッソ〉が海に流した有機水銀で発生した水俣病を背負う人びとと共に生きた。
石牟礼道子さんは〈水俣〉の万物の低い声で近代化と文明の質への問いかけを細い狼煙(のろし)のようにたなびかせた。石牟礼さんは水俣病結縁のものたちを〈死民〉と名付ける。
近代文明に殺された民は、都市〈市民〉の対語ではない。
「水俣病の中でいえば〈市民〉はわたくしの占有領域の中には存在しない。いるのは〈村のにんげん〉たちだけである。」(『流民の都』石牟礼道子、1973年)
村のにんげんたちが、〈福島〉〈水俣〉と静かに口にするとき、祖(おや)さまの代から守り、いただいてきた森や海や風の声、波の音をその人が抱いていることを感受する。にんげんであるわたくしだけが主体ではない、いのちの総体としての自然や土地。対して、〈東京〉と喉元に突き付けられるとき、私有する物質文明への懐疑、侮蔑、不信が含まれている。
「大地がコンクリートに生き埋めにされている」と石牟礼さんが呟いた〈東京〉で、安倍首相は「愛国」を語る。2014年12月14日、衆議院選挙に勝利した日、「憲法改正は(我が)悲願である」と述べた。
悲願は、本来仏が衆生を救おうとする誓願。他者の苦しみを悲しみ祈る万物の心。悲願は、わたくしを越えた祈りのようなもので、国や民を私有するものでは、ない。
日本国憲法は、戦争でいのちを奪い奪われた人たちを訪れた非戦と尊厳への美しい理想、意志、詩、宣言である。傷ついたいのちが再び歩み続けることを可能にした七十年の悲願。生くる者すべての尊厳を辱め対話を遮断する政治を超える悲願が、3.11以降の人びとの闇に花と変化(へんげ)していることを感受する。死民と未来の人と連帯し、悲願が花と言葉として生み出され、細い狼煙となる時が満ちるのを待ち続けている。次の殺戮を迎えぬために。
コンクリートの下の死者を聴き/草の露を思え/幻の花に悲願を/花の狼煙あげよ
(なかむら じゅん・詩人、編集者)

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