思想の言葉(『思想』2017年8月号)

思想するアフリカ

真島一郎


 自分がいま、世界のどこにいるのか分からなくなる感覚にわたしが囚われるようになったのは、おそらく二〇一一年以後のことである。その年の三月、東日本大震災と原子炉建屋爆発の信じがたい速報映像を、わたしは長期滞在中のセネガルの首都ダカールで茫然と見つめていた。サハラ砂漠の向こうで前年末のチュニジアから年明けのタハリール広場へと燃え広がっていくアラブ革命の映像にも、同じくダカールで「間近」にふれていた。マグレブ発の社会変革の波と、東アジアで破局として露呈したグローバルなエネルギー戦略の歪みとがじかにがり噴出したような、一般市民の歴史的な直接行動―「停電」叛乱―が、ついにはここダカールで六月に発生する。一連の出来事が世界のどこかで明滅しながら生起し、現にそうした叛乱のひとつを目撃さえした数カ月のあいだ、自分がいたのはほんとうにダカールだったのか。わたしはいったい、世界のどこにいたのだろう。

 セネガルの文芸批評家アダマ・ソウ・ジェイが、自国の作家シェク・アミドゥ・カンと大江健三郎の作品世界に、「持続のなかの暴力」という共通の文学的モティーフを見出したのもこの年、ダカール騒乱直後のことである。植民地化の過去から現在にいたるまでアフリカ諸国で継続する暴力にせよ、ヒロシマからフクシマへと図らずも引き継がれてしまった極東の核の警告にせよ、「暴力は、持続の次元に書き込まれていくもののように私には思われる」と、このときジェイは結んでいた(「遠いセネガルの私」、『早稲田文学』第四号、二〇一一年)。

 持続のなかの暴力とアフリカ。おそくとも一九世紀末よりこのかた、人間の統治をめぐる広大な実験場として折々の世界性を外部から刻印されつつ、十全な「市民」の空間から隔離されてきた大陸の名、土地の名は、はたして当の世界にとり固有名といえるだろうか。共和政下の奴隷解放という名目で、逆に強制労働の煉獄と化していった仏領西アフリカの「自由の村」。世紀後半には「ビアフラ」の遠因となる英領ナイジェリアのルガード式間接統治。萌芽的都市計画の細片として、英領仏領をとわず「黒人地区」の名で大陸中に散種されていく、微細な/予兆としてのアパルトヘイト。そうした帝国主義の統治技術と戦間期植民地経済の実験場から、冷戦体制下の「独立」と「貧困」ブロックの形成へ。ガバナンス指標と債務返済を楯にとる構造調整プログラムの施行から、九・一一を経由したアフリカ紛争防疫圏の―エボラ・パンデミックの防疫態勢とも不吉に重なる―ゾーニングへ。さらには、世界等し並みの経済成長や北京コンセンサス、新BRICSといったスローガンが乱反射しあうなか、アフロペシミズムの世界辺境論から突如として急激な成長局面に反転をとげ、新たな投資対象として表象されはじめた生政治の実験場へ。つまりは、『スラムの惑星』や『ルガノ秘密報告』、『負債論』の告げる破局をひとまとめに内蔵させた「資本主義最後のフロンティア」へ。

 それゆえアフリカとは、あの大陸でしか生起しなかった過去と現実の、例外主義的な総称以上の何かである。それは土地の固有名というより、生産と消費を無限に更新していく人間の生命過程をめぐり世界規模でいま展開しつつある事態、いわば「人間の条件」そのものの世界性に近づくための問いの別名ではないだろうか。とはいえ、世界がいまアフリカ化しつつあると言いたいのではない。逆に、アフリカをかつてもいまも私たち自身とみなす想像力が、ここでは試されている。じつは私たち自身にほかならないアフリカが、個々の人間として、生者として、主体として、持続する暴力のただなかから表明してきた思想を、世界全体でたがいに通いあわせるだけの想像力が試されている。

 「アフリカ」を正面から掲げた企画としては、長きにわたる本誌の歴史でもこの特集が初の試みになると伺った。ならば、「思想するアフリカ」という表題のもとで想定された「アフリカの思想する主体」の位置づけが、その意味でもいっそう問われてくるだろう。アフリカ出身の知識人や思想家、政治家、運動家が、二〇世紀以後の公共圏を舞台に積みあげてきた「アフリカ[社会]思想」や「アフリカ哲学」の歴史には、むろんすでに相場の厚みがある。このうち前者を代表するのは、戦間期のネグリチュードにはじまり、戦後の脱植民地化から独立にかけての民族解放運動を彩ったパン・アフリカニズム、アフリカ社会主義の諸思潮や、反アパルトヘイトの黒人意識をとなえ、あるいは新植民地主義の打倒をめざした社会変革思想の系譜であるだろう。そこからは、センゴールやアンタ・ジョップを筆頭に、ルムンバ、ンクルマ、ニエレレ、ネト、カブラルから、ビコ、サンカラへと連なる人物名がすぐさま想起されるだろう。他方で、独立前後期のカガメやムビティらによる、いわゆる民族哲学ethnophilosophyの体系化から始まった「アフリカ哲学」は、以後も、英仏の哲学的伝統を深く摂取しながらアフリカ的な知の位置づけをさぐるウントンジ、アッピア、ムディンベ、ムベンベといった研究者や、土着の社会に多様性として根づいてきた知や倫理の再評価をはかるオデラ・オルカの「賢人哲学」の登場をみてきた。

 ただし、本特集の「思想するアフリカ」とは、地域研究の一分野として概説が求められるような「アフリカ思想」や「アフリカ哲学」を意味しない。アフリカの思想する主体とは、そうした概説の一覧に名を連ねる異国風の他者たちでもなければ、回避すべきだった閉域に追い込まれたあとの主体たちでもない。たとえば、アフリカ文学が「世界文学」の一角を占めるわけではなく、すでにそれ自体が世界文学に固有の問いを読み手へ直接投じているように、「思想するアフリカ」が大陸を超えて世界にさしむけるのは、公共圏に名を連ねた言説や著述の主体というより、新たな「人間の条件」下でいまやいっそう苛烈となった日常をいとなむ主体たち、つまり生活者の論理であるだろう。しかもそれは、アレントが近代以後の「人間の条件」として否定的に位置づけた「生命過程」や「社会的なもの」の契機を、逆に当の条件における可能性として、脱国家的に―公共圏の存続可能性をめぐる懸念とは無縁なコミュニケーションの次元で―再考する論理となるだろう。

 ここでわたしが想起するのは、アレントが警戒した生命過程の無窮ぶりを一見想わせるかのようにして、「人間のエイジェンシーが永遠に進行中の作業である」ことをアフリカの生の論理にみいだすときのフランシス・ニャムンジョである(「フロンティアとしてのアフリカ、異種結節装置としてのコンヴィヴィアリティ」、松田素二・平野(野元)美佐編『紛争をおさめる文化―不完全性とブリコラージュの実践』(『アフリカ潜在力』第一巻)、京都大学学術出版会、二〇一六年)。かれによれば、アフリカの民衆的な想像力や認識世界において、人間はつねに発育途上の「不完全」な存在とみなされてきた。そして、生の不完全性を前提とするこうした人間観からは、他者とのコンヴィヴィアリティの契機がおのずと開示されてくる。ただしそれは、アフリカ人同士の、内輪の「共生」を意味しない。排除と背中合わせの閉じた集合的主体「アフリカ人」が想像されるわけでもなければ、「非西洋に学ぶべきだ」といった裏返しの帝国主義的表明がいまさらながらに反覆されるわけでもない。アフリカのものとされた当の思想がそもそも生の不完全性に支えられている以上、自分と異なる存在を魅力的なものとして受け入れ、ヨーロッパをはじめとした見知らぬ客人を共餐/饗宴(コンヴィヴィアリティ)に招き入れるような、混淆や結合への要請が、この論理には初めから組みこまれているからだ。

 あるいはこうもいえるだろう。ニャムンジョのいう「不完全性」とは、否定の接頭辞を添えることでしか言語化しえない人間の生の本来的な姿をきわだたせた表現であり、したがってその意味では、アフリカをもっぱら「欠如」の大陸とみなしてきたヘーゲル以来の差別的表象を、人間の日常における「ローカルな強迫妄想の欠如」として再専有化し、当の妄想の虚しさをそのままローカルなヨーロッパに突き返すための喩になりえているのだと。本来的にコンヴィヴィアルな人間の生にあって、「不完全」はあまりに自明な常態であるがゆえに、それは「完全」などという、およそ非現実的な幻の有標性を立ちあげたのちにすぐさまこれを否定するという手の込んだ修辞に訴えないかぎり、言語化しえない。そのことは、異質なものをたえず相互連結していくアフリカ的想像力の「不純」ぶりが、「純粋」などという非現実的な強迫妄想を突き崩していく契機になるのと同じである。さらにいえば、人間の生の日常に根ざしたあまりに自明な常態であるがゆえに、「暴力」の否定形として以外に言語化しえない「非暴力」の―向井孝にならえば「非暴力直接行動」でさえある生業活動の―様態も、これらとまったく同一の修辞に訴えないかぎり、明確には指し示せない生の実相の一角を構成しているだろう。いずれにせよ、否定辞をそれとは別の否定のために活用したこれら一連の修辞が、生の「不」可能性でなく、可能性こそを想像するための手段となっていることだけはまちがいない。

 「持続のなかの暴力」に曝されたままの大陸から目をそむけるべきではないにせよ、思想するアフリカは、扉も翼も奪われたままの主体の居場所であってはならない。このとき、出口を見いだすうえで賭金となるのは、論議の範囲を「他者」の主体性にとどめるような、安定した発話の位置からアフリカを語るかわりに、アフリカの思想する主体を、日本語による読者共同体のただなかに見いだすような想像力であるだろう。土地の固有名でないアフリカの住人とは、いわばこの国の読書界そのものである。「私たちにとってのアフリカ」ではなく、コンヴィヴィアルな思想の未来に向けて、「アフリカである私たち」について考えること。たとえば、日本の敗戦を凝視した若き日の山口昌男が、天皇制の深層に向きあうために独立直後のナイジェリアへと旅立ったように、あるいは逆に、一九七〇年に来日したマジシ・クネーネが、この国と南アフリカとの偽らざる関係を痛烈に指弾したように、今日のこの国、いやむしろ東アジアにとって、アフリカの思想する主体とは、いったい他者にとどまりうる存在なのか。奇しくもいま、FOCAC北京宣言に続いて福島第一原発事故をへたのちの、この地域一帯に生きる私たちにとっては。

 アフリカと東アジアの思想する諸主体が通いあうとすれば、それはまた、ホブズボームが『原初的叛乱者たちPrimitive Rebels』に光を当てたさいの原初性、すなわち不純で混淆した、コンヴィヴィアルな歴史認識を通じてでもあるだろう。本特集に発言を寄せている小田マサノリは、ケニアの呪医による陽気な治療パフォーマンスを一種のラフ・ミュージックとして明確に体感し、その「思想するアフリカ」を自己の肉体ごと、日本に移植した。社会の内側に生ずる矛盾や敵対性の自由な表明/表現こそが非暴力状態の特質であることの原初性は、かくして二一世紀初頭の東京で小田が創始したサウンド・デモを、ケニアの村で繰り広げられる「魂の捜索」に、あるいはキング牧師がバーミングハムの獄中で綴った書簡の文面に、あるいはショーペンハウエルの「ヤマアラシのディレンマ」にさえ、まさしくコンヴィヴィアルに連結させていくはずなのだから。
 「もしかりにアフリカが存在しなければ、この世界は今よりずっと貧相なものになっているだろう」(ニャムンジョ)。

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