桑原史成

2011年11月、最初の取材で紅葉する山を切り取った。「死んだ山野に輪廻のように繰り返す美しさを見た。人々が失ったものを表現したかった」。日韓両国で開いた写真展は「奪われた野にも春は来るか」。日本の植民地時代の朝鮮の詩と同じ題だ。国の原子力政策に翻弄された人々との、「苦痛の連帯」を試みたという。
 (原発事故被災地の取材を続ける写真家・鄭周河さんの言葉、朝日新聞2017年7月21日より)
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鄭周河(チョン・ジュハ)さんは、いま韓国で活躍するドキュメント派の写真家である。
この春に韓国では前大統領の朴槿恵(パク・クネ)氏が弾劾裁判で罷免されて急遽、大統領選挙が行われた。ぼくは1960年代から韓国での取材を継続してきたことから、歴代の大統領をほぼ記録している。このたび現地を訪れた折に、鄭さんと再会した。
釜山の古隠写真美術館で写真展「모래 아이스크림/Sand Ice-cream」(砂のアイスクリーム)を開いていた。韓国の写真作家の多くはアート系(コンテンポラリー)といわれ美術に通じる被写体を撮る傾向が強い写真風土の中で、鄭さんは社会の動きにも関心を持ち、また日本にも取材範囲を広げている。
韓国の写真家にとって、日本は取材がやり難い国のようである。ぼくが知っている限りでは、日本に生活の場をおき、震災を撮る朴晋暎(パク・ジンヨン)、今年の土門拳賞を受けた「新宿迷子」の梁丞佑(ヤン・スンウ)、数年前に講談社出版文化賞写真賞を受けた権徹(ゴン・チョル)、それに「慰安婦」の写真展をめぐってニコンを訴えた安世鴻(アン・セホン)たちだけである。
韓国の原発は24基で、鄭さんはその一つの釜山から近い古里(コリ)原発の前の浜で砂遊びをする少女の姿などを撮影した写真集を出版しており、それが今回の写真展のテーマでもあった。
大津波の石碑
ぼくも福島原発の周辺で浪江町や飯舘村などを撮影してきている。
東日本大震災から半月後の3月末から取材を開始した。岩手県の宮古市中心部から近い重茂(おもえ)半島に、まず訪ねてみたいところがあった。重茂漁協は首都圏を中心に活動する生活クラブ生協との間で産直の取引があったことによる。ぼくは生活クラブの編集部門で写真に関わっていたため、重茂についての知識はもっていた。
海岸部におかれた漁協の施設は鉄骨を残すだけでことごとく流されていたが、漁協の本部事務所や産直用の食材を加工する工場や冷凍倉庫などは、見上げる中空のと表現したくなる海抜85メートルのところにあった。重茂は近代だけでも明治三陸地震(1896年)と昭和三陸地震(1933年)に被害を受けてきた。
先人たちが残した石碑の碑文に「此処より下に家を建てるな」と刻んであった(写真)。碑の標高は約60メートルで、この下の姉吉部落の地には一軒の民家も建っていなかった。しかし、重茂半島全体での犠牲者は50人、負傷者15人。漁協の世帯数403世帯のうち、88世帯の家屋が流された。海岸部の平地は経済性や利便性にすぐれていて、先人の遺訓を生かしきれない。
「喉元すぎれば熱さを忘れる」という。自分自身も同じような失敗を幾度となく繰り返す。人の世の不幸も同じようで、災害の悲劇は未来永劫無くなるということはないのかと思わされる。
(くわばら しせい・写真家)

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