鬼頭秀一

放射線が見えないのは、自分たちの都合で自然を社会化した国と東京電力が、その結果として発生した社会の病の存在をきちんと認めないからだ。政府が避難指示の解除にともない住宅の無償提供などの支援を打ち切れば、「避難者」という存在も不可視化され、放射線被害は一層見えにくくなる。被災者の不安が過剰に見えるとすれば、放射線の物理的影響に上乗せされた社会の病が隠されてしまうからではないか。
(伊藤浩志『復興ストレス――失われゆく被災の言葉』彩流社)
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2011年の東日本大震災に伴う福島第一原発事故から6年以上経って、行政による強引な帰還政策が断行されている。放射線量が未だに高い地域が点在しており、山林などは除染もされず、除染土のフレコンバッグが膨大に置かれている状況の中でである。高齢者が帰還したいという思いはよく分かる。しかし、若い人たちに帰還を強要することは無理というものである。自治体によっては、2011年に、その値が高すぎると批判がありつつも「緊急時」の「暫定的」な基準として定められた年間20mSvの基準を、強引に適用することで小中学校再開を行うことまで決めている。
被災者の人たちが持っている「不安」は「リスクコミュニケーション」で解消するべきものと捉えられている。本来の「リスクコミュニケーション」は多元的なリスクを人々がそれぞれの人生の価値観の中でどのように選択していくのかを助けるものであったはずだ。しかし、今ここで展開されているのは、「正しい科学的知識」を持つことで「不安」が解消され、問題の解決になるという、一種の「教化」ではないのか。帰還政策を支えるべく、専門家と自称する人たちの「科学的に正しい」とされた言説が跋扈し、すこしでも疑問を持つ言説は「デマ」攻撃される事態にまで発展してきている。
そもそも、「リスク」には多元性があり、一元的に定められるものではなく、その意味で「安全」は科学的に決められることではない。放射線被曝についての「不安」は、その長期的な影響も含めた「不確実性」が高いことにも起因しているにもかかわらず、こうした「不安」さえ口に出すことが憚られるような言説空間が形成され、それによっても被災者はより疎外されていく。
帰還の選択はできず避難を続けなければならない人たちや、帰還しても日々「不安」を感ぜざるを得ない人たちに対して、どのように寄り添うべきなのだろうか。その鍵になるのは、「不確実性」に対してきちんと向き合い、それを受け入れる姿勢である。「不確実性」を許さず科学的に明白だとして抑圧する言説が、被害にあっている人々をより苦しめ孤立させ、「不安」に追いやっているのである。水俣病のような、現在でも継続している公害問題における「被害」を捉える際にも同じようなことが起こっていた。政策に乗せることができるように、その「不確実性」を的確にマネジメントしていくことが専門家に求められているのである。
翻ってみると、災害が多発する中で、地球温暖化も含めた環境問題をどう解決していくべきかということに対しても、同じ構造があるのではないだろうか。私たちは自然とどう向き合うのかを問われている中で、「不確実性」を受け入れ、それをうまくマネジメントし、問題を捉え直していくことができるのではないか。それが今、求められている。
(きとう しゅういち・環境倫理学)

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