米山リサ

「日本への原爆投下は必要なかったと、今では多くのアメリカ人が知っている。……償いのために原子力の平和利用の手立てを日本に授ける、これ以上の貢献があるだろうか。」
(Washington Post, 1954)
「私は与えてあげたかったのです。彼らが享受できたはずの人生を。」
(映画 『贖罪』2007年、邦題『つぐない』、日本公開2008年)
*  *
最初の引用(拙訳)は、1954年掲載のワシントンポスト紙の社説からの一節だ。歴史学者ピーター・カズニックが3.11後にネット上で紹介した(注)
核攻撃と放射能汚染による後障害を知る人々が多く暮らす日本列島に、なぜ50基を超える数の原子力発電所が並び立ち、史上最悪の原発災害を引き起こすに至ったのか。事態は収束せず、責任の所在も明らかにされないなか、なぜ停止していた原発の再稼働を急ぐのか。なぜ日本の核政策は、3.11後の歴史の瞬間に踏みとどまれないのか――福島第一原発のメルトダウン、そしてその後もつづく破局的状況の大本に、第二次世界大戦から冷戦へと続くトランスパシフィック(太平洋を貫く)な力学があったことを、この一節はあらためて教えている。
原発を与えることで原爆投下の過ちを償うという米国の態度は、たしかに衝撃的だ。しかし、ここには和解やリドレス(補償、償う、元に戻すこと)の仕組みに通底する矛盾が凝縮されている。
イアン・マキューアン原作、ジョー・ライト監督の映画『贖罪』は、この本末転倒を示唆深く描き出した。
『贖罪』の主人公は、幼いころ自分の嘘によって姉から恋人との幸福を奪ってしまったという過去をもつ。女性は後に小説家となり、自分の過ちで姉たちを生涯苦しませたことの償いとして、幸福な結末を小説に描いて二人に与える。映画の冒頭から終始流れるタイプライターの音は、過去を償うことはディクテーション、つまりきちんと聞き取りこれを書き記すことにあると思わせる。しかしディクテーションにはディクテイト、すなわち命令を下し指図するという意味もあるのだ。主人公が一方的に与えた結末は、はたして二人が真に求めた生であったのか。二つ目の引用(拙訳)は、書き手/償い手が映画の最後に述べた一言である。
和解や補償をめぐる場で、当事者の求めを無視し、加害者が謝罪や償いを一方的に投げ与えるということがあまりにも多くみられる。原発という償いもそうだった。国家間の「合意」(2015年)にもとづき、拠出金を差し出すことで「慰安婦」問題の「最終的かつ不可逆的」な解決を要求する日本政府の態度にいたっては、あえていうまでもない。
(よねやま りさ・文化人類学者、文化研究者)

(注)Peter Kuznick, “Japan’s Nuclear History in Perspective: Eisenhower and Atoms for War and Peace,” The Bulletin of the Atomic Scientists, April 13, 2011. 全文は田中利幸、ピーター・カズニック『原発とヒロシマ──「原子力平和利用」の真相』(岩波ブックレット)で読むことができる。

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