読む人・書く人・作る人(『図書』2017年11月号)安達まみさん

墜落するオセロー

安達 まみ


   「尼崎が燃えているぞ」
 少年は筵(むしろ)をもつ手を休め、尼崎と思しき方向を見た。空は、一面、赤い。撃たれて翼をもがれたアメリカの戦闘機B29が、火の粉を撒き散らしながら、空から降ってくる。ゆっくりと、スローモーションのように。
 少年の名は、笹山隆。やがて戦後に再出発する日本シェイクスピア協会の中心人物のひとりとなる。当時、中学三年生だった彼は、空襲警報が鳴ると、教えられたとおり、竹やりを研ぎ、消火用の筵を水につけた。水を含んだ筵はひどく重かった。
 終戦の年、六月に大阪大空襲があり、東洋一と謳われた軍需工場も、ほぼ全壊した。駅の付近だけでも何百人も死者がでたと聞く。
 前夜、少年は坪内逍遙訳『オセロー』を読んでいた。悠然と落ちてくるB29の荘厳な美しさが、主人公の運命と重なる。
 「おゝ、もうさらばぢや! 嘶く駒も、するどい喇叭も、(…)あの荘厳な大旗も、もうさらばぢや! 名誉の戦争(いくさ)に附物(つきもの)のあらゆる特質、誉れも飾りも立派さも、もうさらばぢや!」
 イヤゴーの舌の毒、みずからの嫉妬の炎に焼かれて、偉大な人間が堕ちていく……。
 二〇一四年はシェイクスピア生誕四五〇周年、一六年は没後四〇〇周年。世界各地で文豪を偲び、学会や公演があった。賑わいが退いた、一瞬の空白、笹山先生からお聞きしたこの話に、わたしは先人たちのシェイクスピア受容の力強さを思った。 

(あだち まみ・英文学) 

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