実川悠太

間に合わなかった。また父のような人が出るんでしょうね。私は何をしてたんだろう。くやしい、悲しいですよ。
(水俣病患者・吉永理巳子さんの言葉。福島第1原発メルトダウンの数日後、久しぶりの電話で)
*  *
理巳子(りみこ)さんは4人兄妹の末娘として、水俣市の明神(みょうじん)に生まれた。祖父は網元で、食卓の主役はいつも魚介類だったが、父の大矢二芳(つぎよし)さんは職工の若い頭としてチッソに勤めていた。二芳さんを襲った奇病の発生が「公式確認」されるのは、病状が小康状態を迎えたころだったが、それから急変して発病1年半で二芳さんが狂死したとき、理巳子さんはまだ5歳。前後して起きられなくなった祖父と弱っていく祖母、4人の子をかかえる母のミツ子さんはまだ29歳だった。「日雇い」という労働が幼い理巳子さんから母をも奪った。怖い水俣病。つらい水俣病。人が嫌がる水俣病。恥ずかしい水俣病。理巳子さんは、父と祖父母の病を人に知られたくなかった。話したくなかった。だから無口な子になった。父や祖父母のことも忘れようと、就職して結婚して3人の子の母になって、人並みに幸せになったはずだった。しかし、何かが引っかかる。知りたくないけど知りたい父の病、そのわけ。
1994年、人から借りた『水俣の啓示――不知火海総合調査報告』(色川大吉編、筑摩書房)は衝撃だった。話を聞き、映画を見て、本を読んで、少しずつ明らかになっていく「知りたかったこと」。わが家だけ、明神だけじゃなかった。チッソが作った病。国は排水を止めなかった。原因はわかっていた。父は悪くなかった。悪いのは父のことを隠した私だ。あんなにかわいがってもらったのに。謝りたい。何をしたら償えるのか。つらかったろう。くやしかったろう。言いたいことがたくさんあったはず。みんなに聞いてもらいたい。父さんの言葉を聞かせたい。そうだ、代わりに私が話そう。多くの人に聞いてもらおう。それから理巳子さんは人前で「わが水俣病」を語り始めた。今でもチッソ城下町の色合いの濃い街で語り部として、時には依頼を受けて各地に出向いて行って。
自然の力に人間は勝てない。災害は残酷だ。だからこそ人間が災害を作ってはいけない、水俣病を繰り返してはいけないと理巳子さんは思う。私の理巳子さんとの付き合いも十数年に及んでいた。しかし、そこまで背負っているとは気付かなかった。私は自分を恥じた。気を取り直した理巳子さんのお話は、来春出版する講演録『水俣から』『水俣へ』(水俣フォーラム編、岩波書店)に収載するが、その中でも紹介される父・二芳さんの遺影は、11月16日から熊本県立美術館分館で開催する「水俣病展2017」でも公開する。
(じつかわ ゆうた・水俣フォーラム)

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