鈴木邦男

と、少しかん高いシンの声がした。
「なあ、わしらカジカの沢のもんは、よっぽど心がけがいいんだね。畠も家も、みんな無事だったもね」
「そだこと言うな」
低い声で、誰かが突つく。
「だって、そうだべさ。太陽さんはちゃんと見てござるもんね。心がけのいいもんは助かるよ。…」
(三浦綾子『泥流地帯』新潮文庫)
*  *
大正15年5月、十勝岳大噴火。家も人も泥流で押し流される。嘆き、悲しみ、逃げ、そして他の人々の救助活動に必死になる。しかし、少し経つと忘れ、「原因」を考え、こんなことを言う人間も出る。人々の幸せを願い祈っている宗教団体でも、こんな放言をする人がいた。「電車に乗ろうとして急いでいたが間に合わなかった、がっかりしてたら、その電車は事故にあい多くの人が亡くなった。私は信仰をしてたので助かった」。でもこれは間違っている。自分が犠牲になっても他の人々を救いたい。そう考えるのが信仰を持つ人ではないのか。信仰という正義があることで、時として人は傲慢になり、残酷になる。これは愛国心と似ている。傲慢になり、過激になり、排外主義になることがある。
『泥流地帯』でも主人公の耕作は、「心がけ」と言ったシンの言葉に反発する。小説ではこう続く。
〈(そうだろうか) 非情なシンの言葉に、耕作は歩みをゆるめた。死んだ者が、生き残った者より罪が深かったと言えるのだろうか。生き残った者が、シンのように傲慢な口をきいていいものなのだろうか。〉そして死んだ人々の顔を思い浮かべる。みんないい人間だった。〈みな親切な人間だった。残った自分が一番不親切なように思う。〉
僕は右派の運動を長い間やってきた。多くの人が死んだ。優秀で、いい人間から死んでいったような気がする。出来の悪い、不真面目な自分がなぜ生きているんだろうと耕作のように思う。
東日本大震災の時も、「これは天罰だ」と言った人がいた。「東京でなく、東北でよかった」と言った人もいた。共に政治家だ。僕は仙台の高校を卒業した。震災に巻き込まれ、家族が亡くなり、家を失った人もいる。又、東北がどれだけ日本を支え、犠牲になってきたかも知った。東北人であることを強く自覚し、誇りも持った。したり顔の分析や原因探しはいらないと思った。
(すずき くにお・政治活動家)

カテゴリ別お知らせ

ページトップへ戻る