三宮麻由子

安否を確認した百七十名のうち、「長年神を信じてきたのに、どうしてこんな目に遭わされるのか」と言った人はひとりもいなかった。むしろみなが異口同音に「神様はこんなふうにして守ってくださった」「神様の恵みでこうしています」〔中略〕と言ったことこそ、本当の奇跡ではないかと佐藤牧師は思った。
(結城絵美子『倒れても滅びず――奪われた生活、奪われなかった希望』2015年刊、
いのちのことば社フォレストブックス)
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福島第一原発から約5キロのところにある福島第一聖書バプテスト教会。佐藤彰牧師は、震災発生直後から散り散りになった信徒たちや関係者を探し、呼び集めた。そして、会津、米沢を経て、奥多摩の宿泊施設における1年間の避難生活の後、福島県いわき市に教会を再建するという、旧約聖書の「出エジプト記」張りの転回を成し遂げた。
すべてを失っての生活建て直しと心の立ち直りは、筆舌に尽くせない労苦であると思う。私は4歳のときに一日で失明し、ゼロから「立て直す」経験をした。だから喪失と復権の大変さは、違う角度ながら実感できる。
被災者たちは、その瞬間まで普通に暮らしていた。たまたま災害に遭って「数奇な運命」をたどることになっただけである。助ける側にいる人も、いつ同じ災厄に見舞われてもおかしくないのだ。
苦しむ人に寄り添い、苦難は神の恵みだと諭す人がいる。励ましたい気持は分かる。だが、苦難が恵みか試練かは当事者が最終的に感じることであって、他人が決められることではないと思う。試練から立ち直れた人は「恵みだった」と言えても、克服途上にある人は苦しいままなのだ。克服中に本当に必要な助けは、諭しよりも慰めよりも、静かに共にいてもらえることである。被災者の方も同じではないだろうか……。
被災地に寄付するダウンコートを家族で運んだり、会社で催されるチャリティに参加したりしながら、私はそんなことを考えた。
ただ私は、それでも未来を信じて進もうとするなら、試練は恵みとして作用する可能性を持つと思っている。震災が終わったかのように見え「まだ震災やっているの」など悲しい言葉も聞かれるといういま、克服途上の方はある意味で当時より苦しいかもしれない。
でも、忘れずにいよう。歩みを続けていれば、必ず道は開けることを。試練を恵みに変えられることを。種類は違っても、生まれたら誰もが何かしらの十字架を負わされて歩んでいると思う。私は、歩み続ける人はいつか「約束の地」に行き着けると信じている。佐藤牧師も、おそらく信徒の方たちも、そうだったのではあるまいか。
(さんのみや まゆこ・エッセイスト)

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