思想の言葉(2018年2月号)

日本語ミュージアム設立趣意書――空想の国語辞典

中村 明


 ラジオのない厠から相撲や野球の実況放送が聞こえたらしい。待機中の少年が歯切れのよい志村正順アナになりきっていたのだろう。ことばのプライドが高かったのか、やがてNHKの辞典で「団扇」など自分のアクセントが標準と違う項目を丸暗記し、鶴岡から花の東京へと乗り込む。臍曲がりの青年は旋毛曲がりの漱石に憧れて文学の道に進み、学部で波多野完治、大学院で時枝誠記を指導教授に、文体論・表現論の世界をさまよった。

 国立国語研究所員となって辞書との縁が深まり、地引網ならぬ字引編みに時間を割いた。専攻分野の関係で『比喩表現辞典』『感情表現辞典』『人物表現辞典』から最近の『新明解類語辞典』『日本語 語感の辞典』『日本の作家 名表現辞典』『日本語 笑いの技法辞典』に至る多様な表現辞典に挑戦し開拓してきた。国語辞典との縁は、有名出版社のなぜか幻と消えた辞典の項目執筆に始まる。「運搬」に「人間には用いない」と注記しかけ、「病人運搬車」という用例を発見して断念するまでに四日。いつの世も一項目の執筆料がビール一本分で当時は六〇円、日当一五円の計算になる。それに懲りたわけではないが、以後は編纂する側にまわる。『角川新国語辞典』の編集委員の末席に連なって接待を受ける気楽な身分から、『集英社国語辞典』の創業メンバーに転じて運命は一変。高名な松村明と勘違いされたのか準備段階から声がかかり、巷で酌み交わしつつ勝手な夢を語って深更に及んだ。

 人間という横着な生きものにとって、辞書は一冊で間に合うのが理想だろう。それを実現するには単に語彙量を増やすだけでなく、従来の解釈辞典の性格を生かしつつ表現辞典の要素を加え、さらに簡易な百科辞典を兼ねる必要がある。専門辞典を百冊並べても、「玉の緒」は古語、「びっき」は方言、「仙覚」は人名、「伯耆」は地名、「コンテ」は美術、「スラー」は音楽、「シュブング」はスポーツ、「パラチオン」は農業、「メラノーマ」は医学と知らなければ引けない。「穴熊」も動物とは限らず、「と金」もメッキと違い金属と縁がない。見当がつかないことも多く、「越訴」「寛解」「パキラ」「ポアソン」「没骨」という語を前に途方にくれる。国語辞典はその道案内の索引を兼ねる百一冊目の辞典の役も果たそう。

 随筆に昔から枕詞のように「広辞苑によれば」というフレーズが登場する。どんな語でも引けば出てくるという安心感から、いわば家庭の常備薬として重宝されてきたのだろう。脇にあるのは第五版だが、今度の第七版はさらに充実しているはずだ。幅広く対応できる辞書が手の届く範囲にあると心強い。それだけにずしりと重く、持ち歩く気にはならない。できれば小型化して旅先へも通勤にも気軽に携帯したいが、ただ分量を減らして“狭辞苑”にするのでは芸がない。酒の勢いを借りて、多様化した現代文化を生きる日本人の知的な言語生活を支える語彙を一冊でまかない、小粒ながらも国語項目と百科語とが一体化した辞典をめざす方針を口走ったのは、随筆の枕詞が頭から離れなかったせいもある。呆れて誰も異を唱えないまま、勝手な言い分がそのまま通ってあわてた。「編者のことば」に、初版で「日本人の心を映す日本語に精通し、多様化した現代社会を知性豊かに生きるために、時代を認識した新しい総合的な日本語の辞典が要望される」と記し、第三版で「本格的な国語辞典を中核としつつ各種辞典の情報を補充し」た「総合的な日本語辞典をめざしている」と謳うことができたのは、素人ならではのそんな大それた思いつきがきっかけだった。

 各家庭の書棚に百冊もの専門辞典がそろうことは現実に期待できないから、百科項目も索引代わりの見出しだけでなく、どの分野の語もそこである程度の知識が得られる配慮が必要だ。いわば掛り付け医として、軽症の場合は診断・治療を行い、重症や難病の場合は応急処置をほどこして専門病院や総合病院に送り込むように、概要を簡潔に解説して詳細は専門辞典にゆだねる。社会人一人一冊の国語辞典の役割はそこまででいい。便利な総合辞典の泣きどころは、版を重ねるごとに厚くなり、いずれ携帯できなくなるという不安だ。節操のない国では、肌理細かな情報伝達というより、アクセサリー代わりの免税外国語が氾濫し、人目を引く造語が横行し、ウケねらいの新語・流行語が量産される。日進月歩の世の中、さまざまな分野で新しい用語が年々増え続けるのも自然の趨勢だろう。そのまま放置して次々採録すれば、横幅以上の厚みになるのも近い。厚さを抑えるために既存の項目を減らすのは本末転倒、何を削るかで辞典の品格が問われる。ここは大胆に日本語収容所から日本語博物館、ミュージアムへという発想の転換が必要だろう。そういう観点に立てば、国語項目に新たに加わる候補としてノミネートされた洋語や新語・流行語については、現代人の知的生活に有意義な語を除き、最低二十年の冷却期間を設けてほとぼりの冷めたころに定着している語のみ審査する。「イマい」はもちろん「ナウい」や「イカす」も、近年の「ウザい」「ゲット」や「真逆」「素っぴん」「訳あり」も未登録のまま消去され、「裏技」「売れ筋」「縛り」「のど越し」「キレる」などは審査で激論となりそうだ。いわば殿堂入りの語が若干ずつ増えるほかは保守的でいい。百科項目も基本語は同様だが、それ以外は逆に、実生活に役立つ語をその時代に即応して大胆に採録し、使い捨てというよりリースという感覚で重版ごとに大幅に差し替える。便宜上全体が五十音順に並んでいるが、改版の際に不易と流行とを見定めて項目を二分し、後者を期間限定の陳列として活性化するといい。メタボの体型を回避し、社会人必携の基礎辞典としての健全さを保つのである。

 格式を重んじて長期に安定して陳列される国語項目についても、いろいろ欲張った注文がある。項目として記載される順に並べてみよう。まず、見出しは伝統的な語形で掲げ、変化が見られる項目はその旨注記する。ラ抜きことばは一九五五年以前、「来れる」はさらに古くから見られたはずだし、「きかえる」を「きがえる」と発音する例が目立ってきたのは一九六〇年前後らしく、名詞の「着がえ」はもっとずっと古い。そんなふうに調べのつく範囲で変化の時期を示したい。次のアクセント表示も同様だ。「赤とんぼ」が頭高から中高に、「自転車」が中高から平板に、「音楽」や「美人」が頭高から平板に変化した時期を注記したい。博物館ともなれば、もはや絶滅危惧種に指定されそうな鼻濁音の消長も記録しておきたい。由紀さおりが美しい日本語を残すようにと歌唱指導で力を入れ、山口百恵も鼻濁音に気をつけてと息子を舞台に送り出すほど危機に瀕しているからである。「あふぎ」「かをり」「にほふ」といった歴史的仮名遣いも欠かせない。「菊」「人」「服」など、無声の子音にはさまれた母音イとウが無声化する、東日本に多い現象にも言及したい。正書法を示す箇所では、正字体を掲げ、次に略字体・俗字体を添える。同時に、「人々」「人びと」、「しあわせ」「仕合わせ」「幸せ」、「負け軍」「負け戦」など一般表記の幅を示したい。

 古語・雅語・文章語・一般語・口頭語・俗語といった位相表示をして各語の文体的レベルを明確にする。その際、専門語は分野を示す。また、外来語は必要に応じて、もと何語だったのが何語を経てどの時代に日本語に入ったかを明記したい。一九五四年ごろに東京に現れたという元イタリア語の「ピッツァ」は、どういう経緯でいつごろ「ピザ」という発音に侵蝕され席捲される現象が生じたのかも記したい。今でも「ピッツァ」という看板を掲げる店は、そんじょそこらのピザとは違うと誇るシェフの気概が伝わってきて、味も期待できそうだ。意味だけでなくことばにとってはそんな語感も大事だから、素足・素肌系統の「素っ裸」と、真っ赤・真っ正直系統の「真っ裸」とは、発想にデジタルとアナログの違いが感じとれる、そんなところまで踏み込みたい。「聞き落とす」「聞き漏らす」「聞き逃す」といった類義語間の意味の微差や使い分けについて言及するのはもちろんである。「行動」という名詞は、ヲ=とる・起こす・開始する・控える、ニ=移す・走るといった慣用的な結合でよく用いられる。この種のコロケーションも示したい。意味は伝わっても、なぜそういう意味になるか不明では落ち着かない。「左利き」を「酒飲み」と置き換えても狐につままれた感じだろう。ポカンとしている読者に、「鑿手」と「飲み手」が同音なのを利用した洒落と説明して納得させたい。「しのぎを削る」や「切羽詰まる」も、「しのぎ」や「切羽」の説明が必須、「四面楚歌」の「楚」も同様だ。腑に落ちる解説が求められる。

 意味記述では、単にいくつかの意味を列挙するのではなく、意味の分化する枝分かれを系統図に描きたい。半世紀近く前、「抜く」を例に挑戦し、無謀にもそのモデルを示した。「目の前を遮る厚みのある対象に働きかけてその一部に空白を作る」という根幹的意味を仮設し、その線的な力が対象を突き抜ける「貫く」場合と、途中から主体側に戻る「引き出す」場合とに大きく二分する。前者において、対象にすでに小さな空白が存在してもそこが障害となれば「穴に通す」意となる。貫く際の激しさによって「打ち破る」「攻め落とす」意となり、その過程全体を抽象的にとらえると「負かす」意になる。障害物が人や乗物であれば「追い越す」意となり、「貫く」の空間性を時間性に置き換えれば「最後まで」の意となり、それを抽象的にとらえ直せば「徹底的に」の意を帯びる。後者で、引き出す部分に意識が働けば「選び出す」意となり、「選んで使う」意もその延長と考えられる。その部分に不要という判断が加わると「取り去る」意、それをわがものとする場合は「すりとる」意となる。引き出された部分を全体との関係でとらえると「省く」意、残りの部分を全体との関係でとらえると結果として「減らす」意となる。「出し抜く」のように、その動作を心理面に比喩的転換させれば、「欺く」意が浮かび上がる。一見もっともらしいが、個人の思いつきをたどったにすぎない。分析結果はともかく、目標とする意味記述のイメージはわくだろう。一語でさえ日が暮れるから、数万項目に試みるとなれば、気の遠くなるような時間がかかり、ほんとに遠くなるかもしれない。とうてい一個人の手には負えないし、語感を含めればますます主観が大きくなり、大勢でわいわい言ってはまとまらない。

 だから空想の国語辞典である。こうありたいと願う姿について語るときは通常「理想の」とするのだが、「理想」では国でも女性でも絶対ありえないという感じは薄い。「構想」だと次に実行に移しそうな雰囲気が漂う。かといって、病的な「妄想」ではないし、ファンタスティックな「幻想」やとりとめのない「夢想」とも違う。やはり、イメージは具体的でも実現可能性のない「空想」という語が、ここではしっくり来る。童心の消えない老人が、辞典という形の日本語ミュージアムという壮大な夢を描き、その設立の趣旨を熱っぽく語るとともに、とぼけた顔でラフな図面を引いてみたことになるのかもしれない。

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