岩波少年文庫には『星の王子さま』や『モモ』といった、大定番とも呼べる広く読まれてきた作品が多くありますが、
このコーナーでは、若い読者の近くでお仕事をされている方々に、とくに大事にしてくださっている作品を「新定番」としてご紹介いただきます。
詩は難しい、わからない、というのは大人たち。学校でさんざん詩の解釈をさせられて、楽しめなくなってしまったからでしょう。でも、子どもたちは詩が好きで、小学校でよく紹介します。
近所にひっこしてきた子は/とってもタフで/そのパンチ力ったらないんだ。/からだはでっかいし めげないし/らんぼうで 筋肉だらけ。/ぼくは何度も 腕をひねられたし/髪の毛だって ひっぱられた。
近所にひっこしてきた あの子は/ケンカっぱやいし/ぼくの仲間もみんな/やっつけられちゃったんだ。/ちょっとおびえちゃうよ。/(だって ぼくの二倍ぐらい あるんだぜ)/足の指を 思いっきり踏んづけるし/ボールも 横どりされちゃった。/あの子は ほんもののワルなんだ。/ぼくは ○○○が にがてデス。
さて、○○○にはいることばは何でしょう?
子どもたちにはそのまま読みますが、「えっ?」と驚いたり、笑いだしたり、「もう一回読んで」とリクエストされることもしばしばです。「読んでもらったほうが、次がわからなくてドキドキする!」と言った子もいました。
表題の「ガラガラヘビの味」、「ホットケーキコレクター」、「病気」などの愉快な詩、「なにかを見るとき」、「秋の朝」など心に静かに響く詩、自然を歌う詩など62編が紹介されています。作者は19世紀から現代の詩人、アメリカ先住民など幅広く、訳もリズムがよく、声に出して読むとさらに楽しめます。しかつめらしい解釈よりも、まず、ことばに耳を傾け、詩を食べてみましょう。こんなふうに。
お行儀なんか気にしなくていい。/そのまま指でつまんで、/がぶっとかぶりついて大丈夫。/もし汁がでて、あごからたれたら/ペロッとなめちゃえばいい。/すっかり熟して、もう食べごろだから/いつでも好きなときにどうぞ。/ナイフもフォークも/スプーンもお皿も/いらない。/もちろんナプキンもテーブルクロスも。/皮とか茎とか芯とか、ペッと/はきだす種とか、/捨てるところは/なんにもないはず。
――How to Eat a poem浦安市立中央図書館に33年間司書として勤務。現在、保育園司書、日本女子大学等講師、小澤昔ばなし大学講師、各地の図書館員研修会で講師を務める傍ら、小学生に本の読み聞かせ・ブックトーク・ストーリーテリングを続ける。
岩波少年文庫で、唯一のコマわりマンガ。1985年に刊行された旧版(2冊組)のころから、当館の児童室でもよく読まれてきた。
つるつる頭にちょびひげ、ふとっちょのおとうさんと、元気なちびの男の子・ぼくは、大のなかよし。この二人の愉快な日常を描いた134編が、セリフはなく絵だけでつづられている。
子どものぼくだけでなく、おとうさんも、子どもみたいなことをする。たとえば「おもしろい本」というマンガ。テーブルに食事の用意ができたのに、ぼくがいない。おとうさんが呼びにいくと、ぼくは腹ばいで本に夢中。おとうさんに注意され、ぼくがテーブルにつくと、今度はおとうさんがいない。ぼくが見にいくと、おとうさんが腹ばいでぼくの読んでいた本に夢中……。中には、ちょっとした風刺がこめられた作品もある。そこに描かれるユーモアを読み取るには、それなりの〝読解力〟が必要だ。「ねえ、これどういうこと?」と聞いてくる子もいる。
新版が刊行されたとき、教えてあげたら喜ぶだろうなと思いだしたのが、Sくんのことだ。Sくんは1年生のとき、児童室で旧版を読んでもらい、そのおかしさを理解すると、ケラケラと笑いだした。そして小さな椅子から転げ落ちた。それでもなかなか笑いは止まらず、しばらくしてSくんはもう1回落ちた。「笑い転げる」とはこのことか、とそばで見ていて感心してしまった。新版が刊行されたのはそれから5年ほど後。Sくんは忙しくなったらしく、あまり児童室に顔を出さなくなっていた。
わたしも小学生の頃、旧版を愛読していた。どこから読んでもおもしろいし、岩波少年文庫なのにマンガだというのも、なんだか得をしたような気がしていた。
今回、新版の巻末解説で作者の創作の背景を初めて知った。「おとうさんとぼく」の原作は1934年から3年間、ナチスが台頭するドイツで週刊誌に連載されたもの。大きな権力に抵抗する風刺画家が、出身地を筆名にして描いたマンガは「自然に、自由に、心の底から笑える」と大変な人気を博したという。その後、彼は拘留され、牢獄で自ら命を絶った。
それから80年以上たつ今も、この本が「心の底から笑える」ことは、Sくんが身をもって示してくれた通りだ。
公益財団法人東京子ども図書館: 1950~60年代に都内4カ所で始められた家庭文庫を母体とする私立図書館。子どもたちへの直接サービスのほか、“子どもと本の世界で働くおとな”のために、資料室の運営、出版、講座の開催、人材育成など様々な活動を行っている。
護得久えみ子:2005~6年度東京子ども図書館研修生、07年度より同館職員。児童室や資料室の運営、ブックリスト『絵本の庭へ』『物語の森へ』などの編纂に携わる。
1865年、まだインドがイギリスの植民地の時代、インド駐在のイギリス人家庭にキプリングは生まれました。母国で教育を受け、文学の才能を花開かせ、十六歳でムンバイに戻り新聞社で働きながら詩や小説を発表していき、1894年に「ジャングル・ブック」、1895年に「続ジャングル・ブック」を書いています。1907年にはイギリス人初、史上最年少でノーベル文学賞を受賞しました。
120年以上も前に書かれたお話しですが、幼いころから「ジャングル・ブック」を百回以上も愛読した三辺律子さんの新訳と、魅力的な動物を描く五十嵐大介さんのイラストで、モウグリの登場するお話しだけを集めて、2015年に新鮮な本に生まれ変わりました。
トラに攫われて狼の洞穴に辿り着いた人間の男の子は、愛情深い狼の母からモウグリと名付けられ、父、兄弟たち、狼の王アケーラに認められ、ヒグマのバルー、黒ヒョウのバギーラに育てられ、ジャングルでの居場所を得て、ジャングルの掟を知り、動物との会話も覚えていきます。ニシキヘビのカーや、象のハティの知恵や歴史を学びます。時の流れで当然動物たちは年を重ねていきますが、同じ時間でモウグリはどんどん青年に育っていきます。
誰でも迎える自立。モウグリも、どの場で誰と生きていくかを選んでいく時を迎えます。
小学生高学年から中学生にかけて、人が自立していく時期を迎える子ども達に、是非ともこの本を紹介してあげたいと思っています。その年頃の子ども達が、どの環境で育とうとも、どこかの時点で自らが人生の場を、自分の判断で選ぶことが、生きることであることを知って欲しい。そして育てる大人には、老いていくことを、子どもは自立していくことを自覚するためにも、そして語りあうために一緒に読んでもらいたいと思っています。
モウグリと共に、ジャングルでの掟を学び、掟を壊すものも、他者を蔑むものも、経験を学ばないものも、異質を排除するものもいて、楽しいだけではない多彩な切り口を味わえる、やはり名作と言われる作品であると思います。是非、ご一読をお勧めします。
子どもと一緒にゆっくりと本を選べる本屋として、そんな場所の少ない東京の北部、荒川近くの赤羽に開店してから早6年目。併設するギャラリーでは原画展、音楽会、お話し会に企画展など、お茶を飲みながら楽しんで戴ける場所に育っています。
1996年3月の春休み、わたしたち家族は、二度目のイギリス旅行に出かけました。児童文学の舞台を訪ねるのが目的の旅でした。その中でも一番のハイライトは、『トムは真夜中の庭で』の舞台となったグレート・シェルフォードのピアスさんを訪問する事。
今から考えてみると、よくあんな大胆なことが出来たものだと我ながらあきれるのですが、直接ピアスさんに「自分たちは、日本で子どもの本屋をやっている。家族でイギリスに旅行をするのですが、どうしてもあなたのお話の舞台となった場所をお訪ねしたい」と手紙を送ったのです。すると、その無謀とも思える申し出に、ピアスさんは手書きでお返事をくれて「是非いらっしゃい」とおっしゃってくれたのです。
お会いしたピアスさんは、「あなたたちはわたしの本でどれが好き?」と3人に聞き、夫と娘は、代表作『トムは真夜中の庭で』わたしは、『まぼろしの小さい犬』(原題A Dog So Small)と答えました。「あら、あの本のどんな所が?」とピアスさんはちょっと意外そうな顔をされました。わたしが「ベンの犬の欲しい気持ちとフィッチおじいさんの存在が何とも言えずいとおしいから」と答えると、ピアスさんは満足そうにニコニコとうなずいたのでした。
わたしが、この本を読んだのは、20代後半でした。わたしに主人公のベンの繊細な心の動きが手に取るようにわかり、また激しい渇望から想像の犬をつくりだしてしまうほどの犬へのあこがれが痛々しくてなりませんでした。それと同時に、この少年をそっと見守るおじいさんが、とてもリアルな人物として強烈に印象に残りました。
ベンが祖父母から、お誕生日に犬をもらえると思いワクワクしながら受け取ったプレゼントは、毛糸でクロスステッチされた犬の小さな絵でした。絶望するベン。しかし、おじいさんが、しっかりもののおばあさんの目を盗んで走り書きした「犬のことほんとにごめよ」(TRULY SORY ABOUT DOG)と間違ったスペルで書いた手紙を見て、おじいさんのいつわりのない悲しい気持ちをうけとめます。田舎の駅で、ベンを歓迎しお詫びの気持ちを表すためにいっちょうらの青い背広を着こんできたおじいさん。ベンの交通事故のお見舞いに、やけに茎のみじかいマツユキソウの束(牛追い道に咲いていたのを、今朝早く摘んできた)とひもでしばった大きな固形スープの空き缶にうみたての卵を入れておじいさんは、病室にコソコソやってきました。せいいっぱいのベンへのいたわりを感じる場面です。このように、ピアスさんは、主人公だけではなく、一人一人の登場人物を丁寧に内側から描いていきます。ですから、読者は傍観者的に本を読むのではなく、その場に居合わせたかのように、登場人物に心を重ねて読むことができるのだと思います。それは、ピアスさんのどんな作品を読んでも感じられることです。
日々書店で現在の子どもたちに接し、その読書傾向を見ていると、わたしはこの作品は誰に手渡したらいいのかと迷ってしまいます。しかし、わたしはこうも考えるのです。わたしが、この本を読み、自分の子ども時代の渇望やあこがれをまざまざと思い出したように、子どもの周りにいる大人にまずは読んでもらおうと考えたのです。そうすれば、複雑な社会を生きる子どもの心は、とても複雑で深いのだという事を思い出してもらえるに違いないと。その途端、読んでもらいたい読者の顔がはっきり思い浮かびました!
※閉店時間が早まる場合があります。店頭やtwitter等でお知らせいたします。
ホナウト王国の若き見習い騎士ティウリは、騎士叙任式の前夜、最後の試練に臨んでいた。小さな礼拝堂で過ごすその晩は、眠ること、話すことはもちろん、いかなる理由があろうとも外からの声に応えることは許されない。もしその規則を破れば、騎士になることはできないのだ。ところが真夜中過ぎ、ティウリの耳に差し迫ったささやき声が聞こえた。「神の御名において、開けよ!」と。禁を破って戸を開けたティウリは、見知らぬ男から白い盾の黒い騎士に手紙を届けるように依頼される。ところがティウリがその騎士を探し出した時には、騎士は瀕死の重傷を負っていて、彼に西の大山脈を越えた隣国ウナーヴェンの国王に手紙を届ける任務を託して亡くなってしまう。ティウリは白い盾の黒い騎士に代わり、王国の未来がかかった重要な手紙を届けることになるのだが――。
冒頭の静寂から一変、物語は怒涛の展開でティウリを危険な冒険に連れ去ります。ここまでわずか50ページ、物語としてはほんの序章にすぎません。しかし、ここまで読んできた読者はすっかりトンケ・ドラフトの魔法にかかって、ティウリの旅の行方に心を奪われてしまうことでしょう。白い盾の黒い騎士をだまし討ちにして手紙を奪おうとした赤い騎兵たちの影が常に付きまとう中、ティウリは森では盗賊に襲われ、さらに正体不明の灰色の騎士たちにも追われることになります。誰が敵で誰が味方かわからない恐怖、自分の潔白を証明したくても任務に関わる秘密を話せない苦悩――次々とおそいかかる試練の中で、ただティウリの心にあるのは死に逝く騎士と交わした約束を忠実に果たそうとする使命感だけです。その誠実さと勇気は行く先々で彼を助ける味方を引き寄せていきます。そして、常に命の危険と隣り合わせの旅の中でティウリは、真の友と出会うのです。
児童文学の魅力の一つは、これからを生きる若い人たちに「人生は生きるに値する、人間は信頼する価値がある」と知らせることにあります。現実社会の厳しさを知る大人は「人生は物語のようにはうまくいかない」と思いがちですが、そういう大人であっても、やはり心の底では誠実さへの信頼を失ってはいないと私は信じています。『王への手紙』は人々の心に物語の世界を旅する楽しさと、人間の善性を信じる力を呼び覚ましてくれる作品なのです。任務を終えて故郷に帰ったティウリに対してダホナウト王が告げた言葉は、彼の旅を共に体験した読者の心にも深く響くことでしょう。
「わたしが、そなたを騎士に叙任しない、と言ったことには、別の理由がある。(中略)じつは、もうその必要はないのだ。 そなたは(助けを求める)その声に従い、そなたの任務をとげ、エトヴィネム騎士との誓いを果たした。それなのに、そなたは騎士でないのだろうか? そなたは、騎士の叙任は受けなかった。だが、自分が騎士であることを示したのだ。(中略)だから、わたしがいま、そなたの肩に剣をあて、騎士に叙任したとしても、そなたは、それによって、いま以上の騎士になることはないであろう。」
1999年にオープンした、銀座の書店・教文館(1885年創業)の子どもの本の専門フロア。長い間読み継がれてきたロングセラーや新刊書まで約15000点を取り揃える。店内併設のギャラリーでは原画展なども開催。
作家ウーリー・オルレブさんが、ヨラム・フリードマンさんから聞いた話をもとに書かれた作品です。
ヨラムは、1931年9月1日ナチス・ドイツに占領されたポーランドのワルシャワのゲットーに集められた、ユダヤ人家族一家の末っ子でした。ゲットーの中では、食べ物も無くなり、家族もバラバラになりました。8歳のヨラムはゲットーから抜け出して、一人で生き抜かねばならなくなりました。
森の中で食べ物を探し、苔の生え方で方角を知り、ガラスをナイフにして、パチンコで鳥を捕らえ、虫眼鏡で火をおこし、ポーランド風の名前に変え、キリスト教の作法を身に着け、置いてくれた農家では身を粉にして働きますが、脱穀機で腕を巻き込まれ、ユダヤ人の治療はしないという医者の対応で腕を切り落とす事になっても、片腕でもできることが増えると努力を惜しまず、最後はユダヤ名も年齢も忘れるほどの時を、持って生まれた愛らしい笑顔と、運にも、手や情を掛けてくれる人たちにも助けられ、生きることを投げ出さず終戦まで生き抜きます。
冒険小説ではありませんが、子どもが子どもだけの力で冒険に乗り出す物語は11歳頃の設定が多い中、ノンフィクション故、ヨラムは8歳で一人生きていきます。日本ではまだ、小学校二年生。まだ、幼い小学二年生の子どもを思うと、この年齢の子どもの中に、こんなにも逞しく力強く、知恵を絞って生き抜いていく力が潜んでいるのだと、衝撃を受けました。勿論、どんな時代でも子どもがこんな苦労と命を懸けて生きなければならない環境を、大人達は作ってはいけないのですが、子どもが保護するだけの存在ではなく、この世を生きる同時代人として、共に歩む視点も欠かせないと思わせてくれました。
子どもって、すごい。
子どもと一緒にゆっくりと本を選べる本屋として、そんな場所の少ない東京の北部、荒川近くの赤羽に開店してから早6年目。併設するギャラリーでは原画展、音楽会、お話し会に企画展など、お茶を飲みながら楽しんで戴ける場所に育っています。
児童書の中にこの本がずっと存在していることをうれしく思う。教育現場で、是非教材に使ってほしい。受験のための暗記教育はやめて、一冊の本を教師と生徒で共有し語り合う時間を持ってほしいと切に願う。
ナチスは歴史の一環として授業で習うだろう。しかし、この時代の一人一人が何を想いどんな生き方をしたのかを知ることが、再びあの時代を繰返さないためにも重要なことだ。この本が、その核心を投げかけている。ヒトラー政権の恐怖時代に突入していくドイツの子どもたちとそれをとりまく大人たちを描いている。心根のやさしい両親のもとで、「ぼく」は上階に住むユダヤ人フリードリヒ一家と暖かい交流を重ねて育つ。前後して誕生したフリードリヒと「ぼく」はまるで兄弟のようだ。この時代のドイツは、激しいインフレで国民の多くが失業し、困窮にみまわれ不満に満ちていた。国民は、はけ口をヒトラーのかけ声に同調する事に向けてしまう。反ユダヤ主義、極端な優生思想が自分を高める高揚感に酔いしれてしまう。考えられないような残虐なことに平然と加担したのだ。そんな風潮の中で育っていく「ぼく」は、子どもらしく素直な反応を示しながらも、思わず暴力や破壊に加わる「ぼく」がいる。統率や制服にあこがれる若者の姿も描かれ、うっくつした若いエネルギーを少年団で発散するものもいる。又、ユダヤ教の風習や信仰もていねいに描かれ、「ぼく」は好奇心いっぱいに観察している。ラストの五行は、本当につらい。「これで終りなの?!」と30年以上前に読んだ時も思った。この五行は、読者に投げかけているに違いない。あなたもナチス側にいつでもなるんだよと。私はパレスチナのことを知るたびに、イスラエルに住むユダヤの人たちはどうしちゃったんだろう?と思う。ナチスの迫害から逃れ、憎悪が何を生み出すか一番知っている筈なのに、今現在ナチスの様にパレスチナ人を苦しめている。そして更に日本の事。ナチス時代に、この日本は他のアジアを植民地にしてたくさんの虐殺を重ねたのだ。歴史を学ぶ時は、必ずこの日本のことにもふれなくてはいけない。ドイツはあの時代を75年たった今も忘れないよう、尽力している。しかし日本という国は、歴史を修正したい人間が政権の座にいる。「ワイマール憲法がナチス憲法にいつのまにか変わった。あの手口を学んだらどうかね」と言った大臣が、現政権にいる事が何を意味するか、憲法9条が危うくなっている現在、私達はこの本から学ぶことがたくさんある。
現在の店舗は1987年より、合資会社として始めました。絵本・児童書・エッセイ・詩集・自然環境など、たくさん揃えています。本に関するどんなご相談にも、全力で応じます。絵本の原画や色々な作品を展示するギャラリーKIDSも併設しています。地元の絵本作家のあべ弘士さんとたくさんのお客様に支えられて居心地の良い本屋を目指して続けてきました。ご来店をお待ちしています。
「おとなのかんがえなんて、まったくでたらめなものです。」この一文にうなずいたなら、どうぞ『みどりのゆび』をお読みになってください。
主人公の少年チトは、裕福な家庭で大切に育てられていますが、学校へ行っていません。眠くなってしまうからです。チトに特別な教育が必要だと考えた両親は、「土はあらゆるものの起源だからね」と、最初の授業を庭師のムスターシュおじいさんに任せます。植木鉢に土を入れ、おやゆびで種を蒔く穴を開けること。少しも眠くならない授業を終えた時、並んだ鉢を見て二人は驚きました。土を入れて5分で、もう花が咲いているのですから。触れるものみな花を咲かせる特殊な才能「みどりのゆび」を、チトは持っていたのです。
さまざまな先生と、チトの授業は続きます。規律を学ぶため「けいむしょ」を見学したチトは、劣悪な環境にいる囚人たちの悲しそうな姿に、こころを痛めます。ここがもっと美しければ、彼らは逃げようとしたりせず、もっとおとなしくなるだろうに。そう考えたチトは、真夜中にこっそり屋敷を抜け出して、刑務所のあらゆる場所に自分の「みどりのゆび」を押し付けて周ります。翌朝、花でいっぱいの「けいむしょ」は、街中の話題になっていました。
こうしてチトは、自分の特殊な能力を使って次々に街を美しい場所に変え、困っているひと、哀しみにくれるひとを幸せにしていきます。奇跡に誰もが首をかしげますが、ムスターシュだけは、チトを見守り、アドヴァイスを与え続けます。ある日、まもなく戦争がはじまること、そして自分の父親が工場で作っているのは、戦争につかう兵器だと知ったチトは・・・!?
ピュアで繊細な美しさに満ちた『みどりのゆび』。小さなチトが「ぼく、世の中ってもっとよくすることができるとおもうよ」と、自分の持つ力を惜しみなく使う姿が私たちに訴えかけるもの。それは、誰もが自分の「みどりのゆび」を持っているということ。おいしいパンを焼く「みどりのゆび」、こころを揺さぶる音楽を奏でる「みどりのゆび」、読む者を勇気づけることばを生み出す「みどりのゆび」・・・。あなたの「みどりのゆび」は、何でしょう。
小さな本屋を開いて間もない頃、はじめて読む岩波少年文庫に『みどりのゆび』を選んだ男の子がいました。戦争で負傷した自分のおじいさんの姿に、将来は平和をつくる発明家になりたいと教えてくれた少年は、数年後「今月のふくてんちょー」として『みどりのゆび』を、1か月間懸命にプッシュしてくれました。工作が得意だった彼が作った電動式のPOPには、こう書かれていました。「きみも チトに なれる」。
「ゆっくりを愉しむ」をコンセプトとする新刊書店。毎月一冊絵本が届くブッククラブ「絵本便」が好評。小学生が月替わりで一冊の岩波少年文庫を宣伝紹介するプロジェクト「今月のふくてんちょー」は2016年の開始以来、延べ30人以上が参加する人気企画。
1918年、ドイツ帝国の首都ベルリンの市民は、長い戦争に疲れ果てていた。戦地から届く死亡報告の山、食料品店の行列に並んでも何も手に入らない日々。貧困地区アッカー通りに暮らす少年ヘレは、学校から帰るとアパートの老女に預けていた妹と赤ん坊の弟を迎えに行き、工場に勤める母に替わって世話をするのが日課だった。そこに、父が戦地から帰還する。片腕を無くして。
前線の兵士たちの苦境に耳を貸さない皇帝政府を批判する父は、体制を信じる老女や古い友人と激しく議論する。しかし、歴史の歯車は確実に向きを変えていた。ロシアで革命が起こり、ドイツ各地で労働者がストライキをし、キール軍港の水兵たちが反乱を起こしてベルリンに向かっていたのだ。
水兵たちは市民の圧倒的な歓迎を受け、皇帝は退去した。革命が成就し、戦争が終わり、格差の無い平和な時代の到来かと思いきや、政党間の権力闘争は市街戦に発展する。父の支持するスパルタクス団は激しい弾圧を受け、秘密活動に加わったヘレも友人の無残な死を目の当たりにする。
物語は三部からなる。第一部『ベルリン1919』は11月革命、第二部『ベルリン1933』はナチスの政権掌握、第三部は1945年第二次世界大戦の敗戦を舞台にしている。主人公は第一部はヘレ、第二部はヘレの弟ハンス、第三部はヘレの娘である。つまり、歴史の転換点を貧しい労働者一家から描いた、民衆のドイツ史といってもいい。
父親が思想弾圧で逮捕された友人エデ、中流階級の友人フリッツ、反動的な教師、友人となった水兵。危機は社会の断面を生々しく明らかにし、ヘレは自ら信じる行動を取る。わたしたちはヘレを通してその時代を目撃する。胸を鷲づかみにされたように、13歳のヘレの将来を、一家の将来を心配しながら読むことになる。なぜなら、わたしたちはその後ドイツがたどった道を知っているから。
各政党の主張と登場人物の思想は巻頭に整理されていてわかりやすい。巻末には主な出来事の年表もある。それでも、歴史や政治が苦手な人はとまどうかもしれない。しかし、無関心でいるわけにはいかない。年表の行間には、その時代に生きた名もない人々の暮らしがある。一家に起こったことは、いつかわたしたちに起こることかもしれない。「きみたちならきっと正しい道をみつける」と、学校を去ったフレヒジヒ先生のことばは、わたしたちひとりひとりに投げかけられている。中学生以上に薦めたい。
浦安市立中央図書館に33年間司書として勤務。現在、保育園司書、日本女子大学等講師、小澤昔ばなし大学講師、各地の図書館員研修会で講師を務める傍ら、小学生に本の読み聞かせ・ブックトーク・ストーリーテリングを続ける。
この作品には《うそつきフェットロック》《ペットの世話をわすれるレベッカ》《分解好きジェフィ》《こわがりやフィービー》《さがしものが下手なモートン》という親が手を焼く5人の問題児が登場する。
実は39年前、息子たちが小4、小1、1歳半の時に、周りの反対を押し切って、熊本で子どもの本屋を始めた私たち夫婦は、悲惨な経営状態のなか、さて子育てはどうあるべきかなど考える暇もなかったというのが正直なところである。
今や竹とんぼ2代目となる長男はかって学校が終わると、三男を連れてわが家に帰りオムツを替えるというようなこともやっていた。当時まだ布オムツで、トイレで汚物を洗い流そうとして、オムツごと流してしまったこともあったようだ。おかげで、中学になるころにはしっかりと親の言うことを聞かぬ反抗少年になった。この作品を翻訳した二男は自由人、本人の名誉のために内緒にするが、思いもよらぬいたずらや行動をしでかして親の度肝を抜いた。今や優しい育メンの3男は登園拒否児、仕方がないので夫が車の助手席に乗せて仕事先を回り、《子連れ営業マン》という異名をいただいた。
かく言う私も、モートン君と同じで探し物にめっぽう弱い。私がいくら探しても見つからないものを夫がいとも簡単に見つけてくれる。であるから、何かあるたびに我が子にとやかく言う資格があるかどうか、わが身を振り返らざるを得なかった。
子どもが母親の胎内を離れたら最後、親の思うとおりになるはずなどないということをまず覚悟しなければならないのだ。この作に登場する子どもたちは特別手の付けられない子どもとは思えない。
例えば《分解好きジェフィ》、芝刈り機もミキサーも何もかも壊されて、困ったお母さんは8人の子どもを持つグレタさんに相談する。すると、「うちのウィッキーは生まれて4か月の赤ん坊を載せた乳母車に電動芝刈り機をくっつけて暴走させ、センターヒルの修理工場からおたくの乳母車がガス欠になっていますよ」という知らせが来たという一枚上手のわが子の話をしたうえで《ピッグル・ウィッグルおばさん》に預けることを薦める。
おばさんは、いろんな動物を飼い、一人で農場を営んでいるのだが、預かった子どもたちに、厳しいしつけをするわけでもなく、ましてや魔法を使うわけでもない。農場で、ごく真っ当な、やるべきことをきちんとやっていく生活の中で子どもたちの、問題が治っていくのだ。その気になれば実に簡単なこの真っ当な生き方を思い出させてくれるユーモアたっぷりの作品だ。自分の気に入った作品にしか挿絵をつけないと言われていたセンダックの挿絵がそのユーモアを際立たせている。この本を読んだ小学校の先生から「これは、教師必読の書だ」という過分のお言葉をいただいて本当に嬉しかった。
春先から正体不明のコロナウイルスに振りまわされている。心配事は尽きないが、「勉強の遅れが心配だ」というお父さんの横で、深く頷いていた真面目そうな小学校低学年くらいのお子さんをテレビで見た。「いやいやこれからの長い人生を思えば、ここ1、2年の勉強の遅れよりも例えばこんな作品を親子で楽しむ方が、どれだけ心が穏やかなるか」などと言ったら怒られるだろうか?
(2020年5月)人口約6500人の阿蘇郡西原村で、40年近く営業を続けている児童書専門書店。20坪ほどの広さのお店で選りすぐりの絵本・読み物・図鑑などを販売し、県内外から広く多くのお客さんが訪れる。
『ふくろ小路一番地』は、カーネギー賞制定70周年を記念して歴代の受賞作品の中からカーネギー中のカーネギー上位10点に選ばれました。ラッグルス夫妻と7人きょうだいの物語は、小さな心をいためたり、よろこんだり、切ないくらいに家族を思う様子が、子どもの目を通して描かれ、人生のなぞと子どもの真実を伝えるとても愉快なお話です!
『ムギと王さま』(少年文庫では『ムギと王さま――本の小べや1』『天国を出ていく――本の小べや2』の2分冊)は、70歳を過ぎたE・ファージョンが、それまでに書いた作品の中から27編を自選して編んだもので、E・アーディゾーニの美しく幻想的な挿絵とともに不思議な世界に満ちています。カーネギー賞、米国リジャイナ賞、第1回国際アンデルセン大賞を受賞しました。
「その物語が、つくりごととほんとのこと、空想と事実とのまじりあいになってしまったとしても、ふしぎはありません。」と作者まえがきに書かれています。
この27編の物語の中には、寓話や箴言がちりばめられ、詩人でもある彼女の繊細さと大胆さの調和で奏でることばの音楽が響き、夢のようにたゆたう感覚とナンセンスやユーモアでかなしみをのりこえていくたくましさが語られています。
たとえば、世界について知りたがる「金魚」や、「じぶんたちが、なんのことでさわいでいるのか、わかっているものは、ひとりもいません」と思考停止のあやうさを諷刺した「月がほしいと王女さまが泣いた」。「そうかもしれないよ、そうかもしれないよ。どうしてそうではないとわかるね?」と直感を信ずる大切さを説く「モモの木をたすけた女の子」。「サン・フェアリー・アン」では絶望するキャシーにそっと寄り添い、「うそだろうが、ほんとだろうが、おもしろい話は、おもしろかった」と物語のおかしみを伝える「コマネラのロバ」などの強烈なイメージで、心の奥深いところにとどまりつづけます。
中でも、一番美しくファージョンらしい音楽的な「《ねんねこはおどる》」の赤ん坊の沐浴シーンには、『ファージョン自伝』やファージョン自身が著した最愛の詩人の回想記『想い出のエドワード・トマス』や彼女の姪が記した『エリナー・ファージョン伝』に残されていたトマスが赤ん坊を沐浴させながら歌を歌っていたというお気に入りのエピソードが投影されていたのです。
同様に「ガラスのクジャク」のアナ・マライアが、いつも、だれのためにでも、どんなことでもしてあげるその姿は、父がしてきたようにクリスマス級のもてなしを与え、心を尽くしてきたファージョン自身そのものであり、更には石井桃子の『ノンちゃん雲に乗る』『幼ものがたり』『幻の朱い実』にも垣間見られる幸せな記憶、小里文子との想い出、狩野ときわ家族とともに101歳まで生きたその姿にも重なります。
「子どもたちよ 子ども時代を しっかりとたのしんでください。おとなになってから老人になってから あなたを支えてくれるのは 子ども時代の「あなた」です。」(石井桃子)
70年近く読み継がれるこの2冊が、自由に生きる羅針盤となり、こぼれ落ちそうな幸せの記憶のなかに、小さなよろこびを発見し、分かち合える子どもが、これからの新しい時代の未来をつくるのです。
2011年12月オープン。“子どもは未来である”をコンセプトに時代や国境を越えたロングセラーを中心とした感性を育む品揃えで、ライフスタイル提案をしています。様々なライブラリーの選書も行っております。
JR赤羽駅、北改札、東口から徒歩10分(また東京メトロ南北線、赤羽岩淵駅、1番出口からも徒歩10分)。スズラン通り商店街の喧騒から脇にそれたところにある本屋さん。岩波少年文庫はもちろん、厳選された様々な絵本が店内に並び、子どもから大人までゆっくりと本と向き合えます。中庭を見ながらお茶も楽しめ、併設するギャラリーでは時期限定の原画展やイベントも開催中。お店に入る度に、そのあたたかい雰囲気にほっとします。時間を忘れて長くいたくなる、何度も通いたくなる素敵な本屋さんです。
都営三田線、都営新宿線、東京メトロ半蔵門線「神保町駅」A6出口より徒歩1分。書店・喫茶店・コワーキングスペースをそなえた複合施設です。岩波書店の本がそろう「書店」、本を読みながらくつろげる「喫茶店」、様々なイベントをきっかけに新しい知識や仲間に出会える「コワーキングスペース」があります。少年文庫もたくさんそろっています。目移りしちゃうかも。お茶を片手にひと息つきながら、ゆっくりと物語の世界を楽しむこともできます。
各地の図書館・書店で「心ゆさぶる さし絵の世界」パネル展を開催中です。送っていただいた写真の一部をご紹介いたします。さし絵パネルと少年文庫が並んでいる様子が各地から送られてきて、写真を眺めるだけでもワクワクします。パネル展についてはこちらをご覧ください。
10月末までに、全国各地から400件近いお申し込みをいただいております。パネル展を開催してくださっている皆様に心から御礼申し上げます。
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