- 書評 書評
ボブ・ディラン『ソングの哲学』訳者・佐藤良明氏による各曲解説(00-33)
ボブ・ディランの『ソングの哲学』に収められた66曲は、現代日本の読者に必ずしもなじみのある曲ばかりではありません。ふつうなら訳注が入るところも、版面の制限や契約の条件等により注釈や解説を載せることができませんでした。英語圏の読者なら、歌を聴くだけで通じることが、言葉の壁で通じないというのではもったいないと、訳者・佐藤良明さんが発憤し、各曲の、かなり本格的な解説を書いてくださいました。クリックすればうたが鳴り出す動画リンクと共に、ここに掲載します。
00■表紙と前付
リトル・リチャードとエディー・コクランに挟まれている謎の女性ロカビリー・シンガーは、アリス・レスリーといって、50年代後半のロックンロール黄金期に「女エルヴィス」の名をほしいままにした。あどけない顔にリーゼント、体を反り返らせギターをかき鳴らす。その爪跡がパネルの上に生々しい。この写真は、ジーン・ヴィンセントを含めた四人がオーストラリアをツアーした1957年に撮影された。このツアーの最中に「突然の啓示」を得たリトル・リチャードは、罪深いショー・ビジネスから引退を宣言する。
扉ページをめくるとリーゼント頭のお兄さんが、同じ時代のレコード売り場に立っている。棚にはリトル・リチャードの左にハリー・ベラフォンテ、右と右下にエルヴィス、真下にジェイムズ・ディーンの追悼アルバムが見える。背景に見える「ムード・ミュージック」「ポピュラー・ダンス」「ピアノとオルガン」という分類が、時代を感じさせる。リトル・リチャードに触発されたディランはすでにピアノを弾き出していた。
その裏にはやはり50年代と思しき、黒人向けのレコード店の風景。壁に貼ってある写真は、ジャズ・ボーカリストのビリー・エクスタインだ。シングル盤を、菓子パンか何かのように、紙袋に入れて売るというのは、日本のような包装文化のないアメリカでは、以後も普通のことだった。
目次に続いて、ベルトコンベヤーの脇に座った女性作業員の写真がある。彼女たちが中袋に入れているLPは、ミッチ・ミラー楽団の『メモリーズ』(1960)。日曜日のお昼のNHKテレビで「ミッチと歌おう」という番組をやっていたのは、これより少し後になる。
目次のページに先立って、マイクの前で泣きを演じるジョニー・レイの表情が見える(Chapter 22参照)。
01■Detroit City
デトロイト・シティ──ボビー・ベア
製造業が経済を牽引し、都市と農村との間に経済格差とイメージ格差をつくっていた時代の望郷ソング。コーラスで“I wanna go home.”を連呼するこの歌は、北島三郎の〈帰ろかな〉(1965)や三橋美智也の〈リンゴ村から〉(1956)に通底する内容だけれど、日本とアメリカの社会背景は全然違う。
まずこちらのうたには,集団就職というような連帯性がない。親元を逃げ出し、「ばかげたプライドを引っさげて」貨物列車にただ乗りして都会に向かえば、放蕩息子の仲間入りだ。綿花畑の広がる国元からの放浪。その寂寞とした距離感がブルースとカントリー・ソングに共通する。
産業都市の都会に東京のネオンの輝きはない。昼間は車工場を、夜は酒場を支える毎日。Make the cars / make the barsというふうに押韻も単純。メロディも単純。低音のギターリフをハートに響かせるソングを、ディランは本書のトップに置いた。
デトロイトのフォード工場の写真は1924年(大正13年)のもの。ミシシッピー河畔の家族愛の図柄と強烈なコントラストをなす。
フラタニティー・レコードの大失態で、ビル・パーソンズの名で出てしまったボビー・ベアの自作自演盤〈オール・アメリカン・ボーイ〉は、1959年初頭にプラターズの〈煙が目にしみる〉に次ぐ全米2位を獲得した。その後歌手としてはしばらくのブランクがあったが、62年にカントリー・シンガーのビリー・グラマーに提供した〈アイ・ウォナ・ゴー・ホーム〉──別称〈デトロイト・シティ〉──を、翌年自ら録音すると、これが全米16位(カントリー6位)に食い込むヒット。後にトム・ジョーンズ(1967)も、ディーン・マーティン(1970)もカバーするスタンダード曲になった。
02■Pump It UP
パンプ・イット・アップ──エルヴィス・コステロ
ポール・サイモンもキャロル・キングもエルトン・ジョンも、先輩格の「グレイツ」が軒並み無視される本書で、若いシンガーソングライターの中からエルヴィス・コステロがディランの賞賛を受けている。パンクロックの騒ぎが収まりかけた1977年のイギリスに、ビターな知性をぶつけるように登場した男。不満をポンプで膨らますかのような〈パンプ・イット・アップ〉は、翌年出た二枚目のスタジオ・アルバム『ディス・イヤーズ・モデル』に入っている。
ディランはこのソングの言語を「ニュースピーク」と呼ぶが、別にジョージ・オーウェルのディストピア小説『1984年』に結びつけようとしたわけではあるまい。自身の〈サブテレニアン・ホームシック・ブルース〉(1965)を引き合いに出しているところからすると、言葉をちぎって投げつけるしゃべり方、歌い方を指して「新言語」と言っているのだろう。
メガネをかけたその相貌が、バディ・ホリーを思わせるのはみんな気づくところだが、往年の喜劇役者ハロルド・ロイドの名を出されると、確かに似ているので笑ってしまう。
エルヴィス・コステロがバート・バカラックと共作した最初は映画『グレイス・オブ・マイ・ハート』(1996)で流れた〈ゴッド・ギヴ・ミー・ストレングス〉。二人のコラボレーションは、その後アルバム『ペインテッド・フロム・メモリー』(1998)に結実した。カントリー音楽に挑戦したアルバムとしては『オールモスト・ブルー』(1981)を、ソウル/R&Bの音作りを追究したものなら『ゲット・ハッピー』(1980)をチェックされたい。バレエのためにコステロが書いたクラシック音楽のアルバムは、ロンドン交響楽団の演奏による『イル・ソーニョ』(2004)である。
パンクの持ち味と、バカラックの優雅さを平然と結びつけるあたりは、たしかに大物の風格である。おまけにフル・オーケストラを操った。
03■Without a Song
ウィズアウト・ア・ソング──ペリー・コモ
アメリカの新車の多くが派手やかなテールフィンを生やしていたのは、ロックンロールやハンバーガー・チェーン店の誕生と同じ50年代後半のこと。この時代にNBCネットは、1時間番組の「ザ・ペリー・コモ・ショー」を放送し、高視聴率をキープしていた。
エルヴィス・プレスリーが「自分の信念そのもの」と述べたという最初のヴァースは、「うたがなければ」のあと、「一日が終われない」と続き、「事がうまく行かないときに、友がいない」と続く。
ペリー・コモと対比されている「シナトラ軍団」(The Rat Pack)とは、フランク・シナトラ、ディーン・マーティン、サミー・デイヴィスJr.、ピーター・ローフォード、そしてジョーイ・ビショップ。ラスヴェガスの栄華を築いた大物エンターテイナーとして初期の時代のテレビによく出ていた。半世紀後のTV歌唱文化のエスタブリッシュメントというと、素人離れした素人歌手のオーディション番組「アメリカン・アイドル」(2002-)になるだろう。
図版のシートミュージックは、この曲が1929年に初出版されたときのもので、表紙の顔はオペラ歌手のローレンス・ティベットである。「ソングの賛歌」と言ってもいいこのうたを歌う彼の歌声も、現代ではネットで簡単に聞かれる。
04■Take Me from This Garden of Evil
この悪の園から連れ出してくれ──ジミー・ウェイジズ
この本にはメンフィスのサン・レコードからのエントリーが多い。南部農業地帯の中央、ミシシッピー・デルタの北端に、音響技師サム・フィリップスが設立した独立系録音スタジオで、少年ディランを夢中にしたアメリカ音楽の革命シーンが演じられたのである。ここで19歳の美声のトラックドライバー、エルヴィス・プレスリーがR&Bを演じて見せた。それにカール・パーキンス、ジェリー・リー・ルイスといったロカビリーの雄が続き、美声のロイ・オービソンも、カントリー界の大御所となるジョニー・キャッシュも、このスタジオを足場として巣立っていった。サン・レコードを足場にした黒人アーティストも、B・B・キング、リトル・ジュニア・パーカーをはじめ数多い。
それら大物をさしおいてディランは、無名に近いアーティストの、お蔵入りしたレコードを取り上げる。理由は罪に汚れた人間たちを歌うこのうたが、歌詞においても、逼迫した演奏においても、ゴスペルになっているから。サン・レコードが、その出発点において、白人黒人の境界だけでなく、世俗の享楽と神にすがる情熱との境界も越える場になっていたことが、この録音からわかる。周知の通りディランは、ファンからブーイングを浴びつつ、キリスト教再興運動に身を投じたかのようなゴスペル風アルバムを出し続けた時期があった。だが、魂の問題として、ゴスペルとロックの間にどれだけの違いがあるというのか。〈火の玉ロック〉でピアノを叩き回るジェリー・リー・ルイスの熱狂は、ギターを抱え南部の町を歌って回ったゴスペル歌手シスター・ロゼッタ・サープと、どれだけ違っていたというのか。
ジミー・ウェイジズについて、英語版ウィキペディアでは立項されていない(2023年4月時点)が、ドイツ語版ウィキペディアには、彼はエルヴィス・プレスリーと同年に、同じミシシッピー州テューペロに生まれたとある。ロック史家コリン・エスコットとのインタビューでそう答えているのだそうだ。同じ学校に行ったとか、母親同士同じ工場で働いていたといった記載もネットには見える。事実はわからない。その靄の中から紡がれた本エッセイで、ディランはジミーとエルヴィスが入れ替わっていたらどうなっていたかと想像する。ジョニー・キャッシュとエルヴィスのバック・ミュージシャンが入れ替わっていた可能性を指摘して、ジャンルの発想に縛られがちな読者の頭をもみほぐす。事実を重視する本とはこれは違うので、エルヴィスがテューペロを出たのは8歳ではなく13歳のときだったと主張しても空しい。
図版は、13世紀フィレンツェの画家コッポ・ディ・マルコヴァルドの『地獄』(サン・ジョヴァンニ洗礼堂)、〈悪魔と心を通わすうた / Sympathy for the Devil〉で始まるローリング・ストーンズ『ベガーズ・バンケット』(1968)のジャケット用写真、および1954年の20世紀フォックス社の映画『悪の花園』のポスター。
05■There Stands the Glass
そこにグラスがある──ウエブ・ピアス
「そこに立っている」のはどんなグラスか。スライドギターが支配する一見のどかなカントリーの歌声からは思いもよらないイメージを、ディランは紡ぎ出す。「……俺の恐怖をすべて隠し、俺の涙を押し流す」一杯のグラスについての歌詞からディランは、PTSDを抱えたヴェトナム帰還兵の悪夢の世界を引き出す。それって、ありかよ。
やや意外かもしれないが、ヴェトナム戦争に直接触れたうたを、ディランは少なくとも録音していない。〈戦争の親玉 / Masters of War〉や〈ゲームの駒 / Only a Pawn in the Game〉などを歌って「プロテスト・フォークの貴公子」などと呼ばれたのは、1963年を中心とした公民権運動の時期で、アメリカはすでにヴェトナムへの軍事的介入を始めてはいたが、それが泥沼化し、国内に反戦気運が巻き起こる頃には、ディランはオートバイ事故をきっかけに隠遁し、再度登場したときにはすっかりスタイルを変えていた。だから、ヴェトナムでの米兵の行状をこれほどエグい形で糾弾する文章には驚かされる。
思い詰めた顔でグラスを手にしようとしている女優の図版は、『グランド・ホテル』(1932)のジョーン・クロフォードだ。
ウェブ・ピアスは1950年代のカントリー界に最も多くのヒット曲を送り込んだ一人。ナッシュヴィルのライマン公会堂から毎週放送されていたカントリー業界のトップ・イベント「グランド・オール・オープリ」から1952年、アル中のハンク・ウィリアムズが干されてその代わりに入った。ディランが小学校4年生くらいから中学を出るあたりまで、町のカントリー局でもっともポピュラーな歌手の一人だったはず。彼について語るべきことはヌーディ・スーツくらいしかないので、むしろヌーディのことを語ったのだろう……と思いきや、最後のラインで、オマージュがきた。彼のうたの「支柱」の話。──ハンク・ウィリアムズの名曲・名演奏を支えるのと同じギター・ストロークがここにも響いている。
〈オーキー・フロム・マスコーギー〉というソングが出てくる。これは、1960年代と70年代の境目に出たカントリー・ヒットで、ヒッピーの価値観を貶め「俺ら」の信じる自由を、マール・ハガード(Chapter 12に登場)が歌う。
「オーキー」とは「オクラホマの田舎っぺ」を意味する大不況時代以来の言葉。マスコーギーはオクラホマ州の町の名である。「マスコーギーじゃ、マリファナなんて吸いません」で始まるシンプル極まる歌詞は、国民に浸透し、アメリカが現在の「赤い州と青い州」に二分されるきっかけの一つになったとさえ言われる。そのカントリー界の衣装を、北部の都会のインテリたちが目を背けるような模様で飾ったヌーディが、グラム・パーソンズにマリファナ模様のスーツを着せたエピソードは笑ってしまう。簡単に検索できるので、この傑作スーツをぜひご覧あれ。
06■Willie the Wandering Gypsy and Me
放浪ジプシーのウィリーと俺──ビリー・ジョー・シェイヴァー
この原題を、Willie, the Wandering Gypsy, and Meと読めば、登場人物は三人になる。Willie the Wondering Gipsyを一人の名前とすれば二人になる。ディランは、みんな結局同じ一人の人間かもしれない、とも言っている。
アメリカは移動の国。「movingは、being freeに最も近いこと」と歌詞にもある。男を町に引き留めようとする女たちを袖にして、放浪を続けるろくでなし。
ここでいう「ジプシー」は現実のロマの人々を指してはいない。ボトルをひっさげ、馬を進める、ある意味神話的な放浪者。日本の大衆文化にも渡世人はよく描かれるが、先住民を征服して間もない大陸を生きる男たちは、義理人情のしがらみなどおよそ無縁の苦みを抱えて、ほこり舞う路上を進む。「アウトローもの」がカントリーの一ジャンルとして定着する所以である。
ディランより二年年長、テキサスから放浪の末にナッシュヴィルにやってきたシェイヴァーは、このジャンルを代表する一人だ。ワルツの拍子で、アメリカ人心の渇きを歌い上げるこのナンバーは、クリス・クリストファーソンも、ウェイロン・ジェニングスもカバーした。ディランとの相性もよさそうだ。2009年発表の『トゥゲザー・スルー・ライフ』に収めた〈変化の兆し / I Feel a Change Comin On〉(ロバート・ハンターとの共作)には、「ビリー・ジョー・シェイヴァーを聞いて/ジェイムス・ジョイスを読んでいる」という一節がある。
そういえばディランのうたには昔からよく「ジプシー」が登場する。ヴィレッジで歌っていた初期の作品に〈ジプシー・ルー〉というのがあるし、1970年の『新しい夜明け』には〈ジプシーに会いに行った〉という曲がある。1976年の『欲望』からのヒット〈コーヒーをもう一杯〉は、放浪を商売とするロマの一家の娘を歌ったうたである。
07■Tutti Frutti
トゥッティ・フルッティ──リトル・リチャード
1955年当時、ジョン・レノンを始めとする感受性の強い世界の中学生は、みなこの曲を聴いてぶっ飛び、学校の廊下やトイレに「ア・ワッ・バッ・パ・ルー・バッパ・ワッ・バン・ブーン」のシャウトを響かせたという伝説がある。伝説とはいえ、事実からも、そう遠くないだろう。それはロックンロールの起源神話の一つとして世界をかけめぐった。ミネソタ州ヒビングの高校でディランがバンドを結成してピアノを弾き出した、その引き金はリトル・リチャードだったわけだ。
ただ、このうたが、そもそもドサ回りの夜の酒場で演じられた露骨な男色ソングだったことは、長らく知られていなかった。Tutti Fruttiに続くオリジナルの歌詞はgood booty(いいオケツ)、それに加えて「グリース塗れば(if it's greasy)よくすべる(it makes it easy)」のようなラインもあったらしい。
ニューオーリンズでの録音に際し、プロデューサのロバート・ブラックウェルが手配した女性作詞家ドロシー・ラボストリーの手によって、「スーって名前のギャルがいる……」という無害な歌詞に生まれ変わったが、このラインもディラン氏にしたがえば、女装クイーンの、巧みな技を賞賛しているとなる。
裏の意味が通じようと通じまいと、黒人音楽を扱うスペシャルティ・レコーズから出たこのうたがティーンエイジャーの間でヒットし、親たちを慌てさせたところで、ロンドン・レコーズが、清潔なイメージを持つパット・ブーンを起用してその「白塗り」バージョンを発売し、こちらも広く流通した。これまた長く語り継がれた逸話である。
パット自身はこれは「意味不明なうた」として録音に乗る気でなかったというから、ディランがここで書いていることは信用できない。冗談と放談の芸が結構多いテクストなので、ここは笑って読むところだろう。
「炎の舌」と訳したspeaking in tonguesとは、聖霊に憑依された信徒が、意図せずに発する言葉や喚きであって、20世紀初頭から米国黒人社会で発展してきたペンテコステ派教会の儀礼は、この憑依の実践を中心とする。これは良家のお坊ちゃん的イメージをもつパット・ブーンからはまったく遠い世界の話だ。エルヴィスならともかく(エルヴィスによるカバー・バージョンもぜひ聞いてほしい)、「パットが歌うか!」と14歳のボブもそれを聞いて仰天したのではないか。
「トゥッティ・フルッティ」(オール果実)という名のフルーツ・アイスクリームは長い伝統を持つ。イギリスで1860年にはあったらしい。
本章ではセザンヌの『静物』(1894)に先だって、頭の上にフルーツを載せたカルメン・ミランダの妖艶な姿が掲げられている。ポルトガル生まれで、ブラジルでサンバ・シンガーとして成功した彼女が、この格好で〈サウスアメリカン・ウェイ〉を歌って北米にもブームを引き起こしたのは、真珠湾攻撃にわずかに先立つ時代のこと。次の写真で、リトル・リチャードが肩に手を回しているのがジェット・ハリス(シャドウズ)。ジーン・ヴィンセントとサム・クックも一緒に並んでいる。
08■Money Honey
マネー・ハニー──エルヴィス・プレスリー
「マニー、ハニー、アッハ」というコーラスが繰り返される。それぞれ直前の問いに対する答えになっている。一番は「何の用です?」と大家に聞いたら「カネだよ、あんた」。二番は「どうして他に男ができた?」と彼女に聞いたら「おカネよ、あんた」。三番は「こんな夜中に何の用」という彼女の問に「カネだよ、ハニー」。オリジナルは、ドリフターズ。1953年にクライド・マクファターがメイン・ボーカルに入って吹き込んだ。それをエルヴィスが、初アルバムでカバーした。
言及されるうた〈ザ・リッチ・マン・アンド・ザ・プア・マン〉の作者ボブ・ミラー(1895-1955)は、自身の出版社を有した多作の作曲家で、1920年代末からヒルビリー・ソングの領域で活躍した。このうたは、「死んでる点ではどちらも同じ」というオチに行き着くまでに、富者と貧者の乗る車、受ける医療、裁判の不公平などをあげつらう。そのトピカルなテーマには、デビュー時のディランへの影響も感じられる。
最後のパラグラフで列挙されるマネー・ソングを再生されたい向きに、原題を表示しておくと──サラ・ヴォーン“Pennies from Heaven”、バディ・ガイ“$100 Bill”、レイ・チャールズ“Greenbacks”、(ストリング・バンドの)ニュー・ロスト・シティ・ランブラーズ“Greenback Dollars”、ベリー・ゴーディ(歌ったのはバレット・ストロング)“Money (That's What I Want)”、(ブルーグラスの)ルーヴィン・ブラザーズ“Cash on the Barrelhead”、(パフ・ダディの別称で知られるヒップホップの)ディディ“It's All About the Benjamins”、(その後カントリー・スターとなった)チャーリー・リッチの“Easy Money”、(ロック畑の)エディ・マネーの“Million Dollar Girl”。
“The best things in life are free”(人生最良のものは無料)の一文は、ビートルズがカバーしたことで今日もよく知られる〈マネー〉からの引用。
09■My Generation
マイ・ジェネレーション──ザ・フー
60年代ロックのシーンに、辛辣なメッセージと破壊的なステージを持ち込んだザ・フーの最初期のヒット曲。1967年のライヴ映像では、キース・ムーンの激しいドラミングと、ギタリストのピートのパフォーマンス込みで、このソングの当時の存在感を味わうことができる。
レコーディングは1965年10月というから、ディランの〈ライク・ア・ローリング・ストーン〉が流行った夏のすぐ後ということになる。旧世代を罵るような歌を書いてブレイクしたザ・フーのフロントマンで、アート活動の舞台としてロックを選んだピート・タウンゼントは、ディランと比較可能な英国のミュージシャンの一人だろう。ロックの波頭に乗って、古い世代を置き去りにしていった鮮烈な表現者同士──ということで、ピートにかけるボブの言葉にも、共感と揶揄が同居しているように感じられる。いや、どうなのか。いまやケアハウスで哀れな姿をさらす自分たちブーマー世代全体をどう表現したいのか、ディランの言葉は捕まえがたい。
この章の最後に、「あんたが見えない、聞くこともできない」という一文がでてくる。これはピートが書くことになるロック・オペラ『トミー』(ステージ1969、映画版1975)への言及である。テーマ曲〈シー・ミー、フィール・ミー〉は今日もロック世代に記憶に残る。
アメリカでの「ジェネレーション」の捉え方だが、generationは動詞generate(生み出す)と結びついているので、日本語の「世代」よりも、もっと長いスパンで考える。かつては親子の年齢差(約30年)をもって一つのジェネレーションとした。
現代のアメリカのジャーナリズムは、ジェネレーションX(略称「ジェンX」)を「ブーマーズ」に続く世代(1965-80年生まれ)とし、以下「ミレニアルズ」(1981-96年生まれ)「ジェンZ」(俗称「ズーマーズ」1997-2012年生まれ)と、16年単位で区切るようになっている。
10■Jesse James
ジェシー・ジェイムズ──ハリー・マクリントック
『ビリー・ザ・キッド / 21才の生涯』(Pat Garrett and Billy the Kid, 1973)に出演もし、印象深い〈ビリー〉及び〈天国の扉〉を残しているディランであるからして、アメリカのソングについて語るなら、首に懸賞がかかったアウトローのテーマを素通りするわけにもいかなかったろう。
ジェシー・ジェイムズは、ミズーリ州西部の出身。ティーンエイジャーの時期に南北戦争を経験し、南軍へのシンパシーからテロ活動に参加した。戦後も、ジェイムズ・ギャングという盗賊団の頭領として駅馬車、店舗、列車、銀行に襲撃をかけ、一部市民のロマンス心を満たしたが、懸賞金に目のくらんだ仲間によって殺害された。
46ページの写真は、ジェシー・ジェイムズと兄のフランク、どちらにも5000ドルの賞金が掛けられていたことが読める。
アメリカの伝承歌だが、ハリー・マクリントックが1928年(昭和3年)に録音した盤が選ばれた。鉄道が華やかだった時代に鉄道員として、巡回芸人として、冒険の人生を送ったマクリントックは、IWW(世界産業労働組合)の労働運動にも身を投じてジョー・ヒル(1879-1915)らと共に戦いつつ、民衆団結のためのうたも書き始め、政治的主張をもって、当時のニューメディア、ラジオの世界にも進出する。
このバラッドは、金に目がくらんだ友による裏切りがテーマ。ちなみに、ブラッド・ピットが主演した『ジェシー・ジェイムズの暗殺』(2007)の原題は「臆病者ロバート・フォードによるジェシー・ジェイムズの暗殺」だった。“The Assassination of Jesse James by the Coward Robert Ford”というのはロン・ハンセンによる原作小説(1983)のタイトルそのままである。
11■Poor Little Fool
プア・リトル・フール──リッキー・ネルソン
実際のネルソン家が、脚本上のネルソン家を演じるというホームドラマが『オジーとハリエットの冒険』。これが「陽気なネルソン」という題で、NHKで放映されていたのは1960-61年のことだが、アメリカでは遥かに早く、1948年にラジオ放送が始まり、1952年、リッキーが12歳のときにはすでにテレビに切り替わっていた。1学年下のボブ・ジマーマン少年は、ミネソタ州の小さな都市の学校で同級生とバンドを組んだりしている時期に、テレビというメディアで、全米のお茶の間に見守られながら、ロックバンドのスターとしてデビューしていくのが、リッキー・ネルソンだったわけである。
1958年、ロックンロールをものにしたアイドルの姿がこれ。番組では60年代にかけて、リッキーの演奏を流した。アメリカ人の記憶に刻まれた家族だから、若き日の父母の姿も、長兄のデイヴィッドと一緒に成長する姿も、ネットでふんだんに目にすることができる。1957年から64年にかけて、リッキーは30を超える数の曲をトップ40に、その約半分をトップ10に送り込んだ。「ロックンロールの大使」としての働きはエルヴィス以上、というディランの見立ては誇張ではない。
ネルソン家の子供たちの成長を綴るこんな映像も、シニア世代のアメリカ人をジンとさせるのだろう。
音楽プロモーターのリチャード・ネイダーは1969年以来ロックンロール・リバイバル・ショーを催していたが、これにリッキーが参加したのはマディソン・スクエア・ガーデンで行われた71年の回。〈ハロー・メリー・ルー〉などのオールディーズを演奏したあとで、ストーンズの〈ホンキー・トンク・ウーマン〉をやったところブーイングを浴びた。翌年彼がそのことを歌った〈ガーデン・パーティ〉には、その経緯がちゃんと歌われており、「ミスター・ヒューズがディランのシューズに隠れていた」という歌詞で、ジョージ・ハリソンと近しかったディランのことも歌われている。
言及される映画のうち、『欲望という名の電車』と『群衆の中の一つの顔』は共に1957年、エリア・カザン監督作品。前者は、没落南部の淑女に対するマーロン・ブランドの容赦ない演技で知られる。後者は、シンガーとして人気を博す田舎の乱暴者をアンディ・グリフィスが名演する。どちらにせよ「リッキー」とのイメージ差は、あまりに大きい。西部劇『リオ・ブラボー』(1959)では、ディーン・マーティンとの、きれいにまとまったデュエットを聴かせるなど本領を発揮したリッキーだったが、これら二作をリッキーが演じたらという想像は、だいぶ意地悪な気がする。
12■Pancho and Lefty
パンチョとレフティ──ウィリー・ネルソン&マール・ハガード
有名人の子がロックンロールで脚光を浴びるという図式の反対側にいたのがタウンズ・ヴァン・ザントで、南部テキサスの上流家庭に育ちながら、エルヴィスに塡まったためにとんだ仕打ちを受けて育った。ジョン・タウンズ・ヴァン・ザントという貴族的な名前をカットしてシンプルにし、破滅型の放浪の末、何とかナッシュヴィルに行き着いてデビューを果たすという生き様も気に入ったろうし、自分と同じくハンク・ウィリアムズに心酔した挙げ句、ハンクと同じ正月元旦に亡くなったことも、胸に響いたか。タウンズから見れば、ボブは三歳上の、シンガーソングライターのヒーローであり、デビュー前は、ヒューストンの店でよくディランのカバーもやったらしい。
この〈パンチョとレフティ〉の、タウンズによるオリジナル・ヴァージョンは、二枚目のアルバム『ザ・レイト・グレイト・タウンズ・ヴァン・ザント』(1972)に入っている。1983年になってウィリー・ネルソンとマール・ハガードという二人の大物がこれを取り上げ、カントリー・チャートのトップを射止めるヒットにした。ウィリーがパンチョを、マールがレフティを演じるビデオ・バージョンが出回っている。
このエッセーでディランが語っている物語の細部は、その多くが歌詞にない。想像の産物、あるいは「スピンオフ」というべきものである。ただ、ディラン自身、ステージでも〈パンチョとレフティ〉を歌っていて、その意味で、これは彼の「持ち歌」でもある。ソングの奥にある「真実」を語る資格は十分あるだろう。
ディランに比べると線は細いが、通じ合う部分はずいぶんあっただろう。52歳で逝ったヴァン・ザントは、21世紀に再評価が進んだ。『Be Here to Love Me』(2004)という、彼のヒット曲をタイトルにしたドキュメンタリー映画も出回っている。
13■The Pretender
ザ・プリテンダー──ジャクソン・ブラウン
ジャクソン・ブラウンは、ニッティ・グリッティ・ダート・バンドのメンバーとしてスタートし、恋人時代のニコに提供した楽曲を通して世界の通なポップ・ファンに認知され、さらにはグレン・フライとの共作の〈テイク・イット・イージー〉がイーグルスのデビュー・シングルとしてヒットするなど、シンガー・ソングライターとしてデビューする以前に、順風満帆のキャリアを歩み出していた男。同時代のヒットメーカーは滅多に取り上げられないこの本で、ジャクソン・ブラウンのこのうたを、ディランが「グレイト」と形容するのは何故だろう。
歌詞を見る限り、この男、偉大さから見放されている。職場まで、毎日弁当を作って出かけ、家に戻って寝る生活。毎日それの繰り返し。そこからの脱出を夢見ないわけではない。しかしその夢もぶつ切れで、真の覚醒(awakening)には通じない。魂の高揚から見放され、毎日が急速に、終わりに向かって過ぎ去っていくだけの日々。
「小さな一カケラのアメリカン・ドリームと引き換えに自分を売り渡した」男と、ディランは彼を説明する。アメリカには、アメリカン・ドリームを信じずにはいられない男たちが、ろくな収入もない生活を、自己イメージだけは高く保って暮らしている。ぼろい人生でも、へばりついて生きていれば、ある日突然、幸運の道が開ける。裏庭から石油が噴き上がる。
平凡な一日の繰り返しの先に、ドリームの世界が開けているとは、このうたの主人公の場合、とても思えないのに、その夢がいつかあたかも叶うかのようにプリテンドして生きている。毎朝、光が差すと、起き上がって、また同じ一日を始める。
その光が、スピリチュアルな世界への入り口になることはない。愛を希求しながら、金銭(法定通貨=リーガル・テンダー)を得ることに追われる。夕暮れの町をぶらつけば、広告がかしましく呼びかける。広告は成功の夢を煽るが、通りから始まる夢は通りでついえる。若き日に力強く歩み出したプリテンダーも、日常にほとんど降伏(サレンダー)してしまった。ゴミ屋が車のフェンダーを叩き、子供たちが静かにアイスクリーム・ヴェンダーを待ち望む生活に。
韻の揃え方がユニークだ。プリテンダーを囲む広告が、消費者(スペンダー)の心を拝金に駆り立てる。それに対して真の対向者(コンテンダー)になるかもしれない「愛」はどこへ行ってしまった? 1976年、アメリカの賃金所得者層の暮らしはくすんでいた。ショッピングモールの華やかさはまだ到来していない。夜の町は寂しかった。オイル・ショックの時代、シコシコと生きる気概を、デヴィッド・クロスビーとグラハム・ナッシュの真摯なコーラスが支えている。
夜道の散歩に出たプリテンダーの目にする光景と心のうちをディランの言葉は、歌詞から離れ、自由に舞い上がる。広告が煽る成功の夢に蹂躙された人生について、ディランが語り直すとここまでハードな世界になっていくのか。
ところで、冒頭で言及されるプラターズの〈グレイト・プリテンダー〉(1956)。こちらは、失恋の悲しみなんかないかのようにプリテンドする男の心中を歌う。彼は自分ひとりの世界をさまよう。
その「グレイト」の語を取り去ったジャクソン・ブラウンのこのうた(1976)は、リアルな街をさまよう男を歌う。2曲の間、その20年間に、ポピュラーソングが、華麗にプリテンドすることから、リアルな世界を見つめることにシフトしたとすれば、その「現実化」に誰よりも貢献したのがボブ・ディラン本人だったというのは、多くの人が認めるところだろう。
14■Mac the Knife
マック・ザ・ナイフ──ボビー・ダーリン
ボビー・ダーリンのヴァージョンは1959年に全米チャートを9週間制覇。日本でのシングル盤は「匕首マッキー」の題で発売された。1964年、尾藤イサオのデビュー曲がこれである。ルイ・アームストロングの盤もエラ・フィッツジェラルドの盤も世界中でよく聞かれたが、マンボ仕立ての美空ひばりバージョンも素敵だ。
クルト・ヴァイル作のオリジナル・ドイツ語版が登場したのはベルトルト・ブレヒト作の『三文オペラ』(ベルリン初演1928)の劇中歌として。この舞台作品は、18世紀英国の歌芝居『乞食オペラ』にアイディアを得て、ワイマール時代(第一次大戦後)のドイツを描いたもの。一方、ガーシュウィン兄弟(アイラとジョージ)が、デュボーズ・ヘイワードの小説『ポーギー』を歌劇にした『ポーギーとベス』はボストン初演が1935年。南カロライナ州チャールトスンの裏町を生きる貧民層のアフリカ系住民を主人公とする物語を、オール黒人のキャストで描く。〈サマー・タイム〉を含むその楽曲は、アフリカ文化の要素が色濃い当地の沿岸地方で書かれた。
フランク・シナトラの取り巻きに対してボビー・ダーリンの「パック」の候補として挙げられている顔ぶれだが、これはどう面白がったらいいのだろう。〈スタンド・バイ・ミー〉で知られるベン・E・キングは、南部の町から移住してハーレムのストリートでドゥーワップを始めた。同じ黒人でもエンターテインメント一家に生まれ子役時代から人気者だったサミー・デイヴィス・Jr.に比べると重々しさは拭えない。ウェイン・ニュートンは、ラスヴェガスの人気歌手としてビジネスマンとして、手広い活動で芸能ジャーナリズムを賑わせた男。実生活で妻を射殺した俳優ロバート・ブレイクはドラマでも翳りのある中年役を演じた。チューズデイ・ウェルドはセクシーで向こう見ずな少女のイメージが売りだった。ボビー・ダーリンと一緒に『三文オペラ』を演じるキャストとして、たしかにふさわしいのかもしれない。
15■Whiffenpoof Song
ウィッフェンプーフ・ソング──ビング・クロスビー
20世紀の100年のトップ40を、独特な方法で集計しランク付けしたジョエル・ウィットバーンの『A Century of Pop Music』によると、1950-99の期間を通して最もランクの高い歌手がエルヴィス・プレスリー、それが1900-49では第1位がビング・クロスビーとなる。電気録音の時代になって、甘く歌いかけるクルーニング唱法が、大衆をうっとりさせた時代の代表歌手である。〈ホワイト・クリマスス〉以外にもビングの美声を堪能させたソングは掃いて捨てるほどあるのに、ここに選ばれたのは、イェール大学の乾杯ソングである。
イェール大学は、ニューヨークの東、コネティカット州のニュー・ヘイヴンという古い大学町にある。創立1701年という古さはハーバードには及ばないが、アイビー・リーグの中でも大きな存在感を持つ。
ディランはこのうたについて、一般民衆とはかけ離れた階級の、秘儀的な雰囲気を語っているが、ビング・クロスビーの盤を取り上げたのは、ビングの先祖がメイフラワー号でアメリカに渡ってきた、WASPの中でも特別な家系の人間だからかもしれない。彼に比べたらディランの家は、ユダヤ系の移民のである。先祖が名乗ったZimmermanという名も、ドイツ語で「部屋(を作る)男」、すなわちCarpenterという意味であって、階級的なハクはつかない。
1909年にイェール大学のグリークラブが歌い始めたこのうたは、英国の文人ラドヤード・キップリングの有名な詩の替え歌で、“To the tables down at Mory's”で始まるが、この「モリーズ」とは、イェール大学の近くにある老舗の「モリーズ・テンプル・バー」を指し、2行目に出てくるLouieは店のオーナーだったルイ・リンダーとのこと。この店は2008年になって160年掲げた看板を一度下ろしたが、その後復活したそうだ。
キップリングによる原詩は“Gentlemen-Rankers”(紳士の兵卒たち)といって、戦場に向かう名門家庭の子弟の心を歌ううた。「我等は道を迷える羊、メー・メー・メー」(We are poor little lambs / Who have lost our way / Baa! Baa! Baa!)の一節は、原詩と替え歌で共通している。
16■You Don't Know Me
ユー・ドンド・ノウ・ミー──エディ・アーノルド
エディー・アーノルドといえば、日本では“I Really Don't Want to Know”が「たそがれのワルツ」の邦題でリリースされたことで知られる。「知りたくないの」の題で菅原洋一がカバーしたあのうただ。こちら“You Don't Know Me”も「愛しているのに」の邦題で出ている。
ルイジアナ州知事(元カントリー歌手のジミー・デイヴィス)から「大佐」の尊称をもらったトム・パーカーは、2022年公開の『エルヴィス』でトム・ハンクスが快演した、あの剛腕のマネージャーである。エルヴィスを買い取って、メジャーデビューさせたのは1955年だが、その2年前まで、足かけ9年、エディー・アーノルドのマネージャーをしていた。大佐と比較されているソロモン・バークは「キング・ソロモン」の尊称で呼ばれ、ソウル音楽の黎明期から半世紀にわたって黒人音楽界に君臨した怪傑である。
80年代を代表するヒットソングの一つ、スティング(ザ・ポリス)による〈見つめていたい〉が、ストーカーの心を歌っているとはよく言われることだが、ここに一緒に登場するとは思わなかった。
実はこのうた、レイ・チャールズの盤(1962)が最大のヒットになったのだが、彼の名前は出てこない。エディ・アーノルド一人、隠れてコソコソ女を愛する意気地なしとして謗りを受ける。
17■Ball of Confusion
膨れ上がる混乱──テンプテーションズ
1964年の〈マイ・ガール〉が、たぶん今も最もよく知られるテンプテーションズ。ベリー・ゴーディがデトロイトに創立したモータウンを、60年代半ば、シュープリームスやフォー・トップスと共に、ビートルズと双璧をなすほどのヒット工房に押し上げた功労者である。だが、60年代末の社会混乱を通して、モータウン自体が、変貌を余儀なくされた。きっかけの一つは、1968年のキング牧師の暗殺。明るく楽しいイメージで白人と黒人の若者が和合するという公民権運動時代の夢を、悪意の凶弾が打ち砕いたのである。「サンシャイン」のうたはもう売れない。「ヒッツヴィルUSA」の異名をとるモータウンも、社会性のある、シリアスなイメージを求められた。
ダイアナ・ロスとシュープリームスの〈ラヴ・チャイルド〉(1968)はスラムで私生児として生まれた自分が、荒んでしまった心をもって、それでもあなたを愛するわ、と歌う。
同じ秋に出た、テンプテーションズの〈クラウド・ナイン〉(ノーマン・ホイットフィールドとバレッタ・ストロング作)は落ち込むしかない人生を歩む者が、恋人と過ごす、雲にも昇るような多幸感を歌う。
その路線をさらに進めた〈ボール・オブ・コンフュージョン〉(1970)に、ここでディランがしびれている。間奏以外、ベースがずっと「ダダッド・ダダッド・ダダッド・ダ」の単純な2音程を繰り返す。ソウル音楽史上最高のベーシストと言われるジェイムズ・ジェイマーソンのベースがだ。ホーンセクションもノリノリ。彼らファンク・ブラザーズをバックにして、テンプテーションズの四人のメンバーが交互にリード・ボーカルをとり、世の混乱を嘆く。間に、低音のメルヴィン・フランクリンが、“And the band plays on.”のワンフレーズを挟む。
今の世界の混乱を歌うソングというと、日本では同じ年に、左卜全が子供たちと「やめてケーレ、ゲバゲバ」と歌って大ヒットした。〈老人と子供のポルカ〉と一緒にしたら叱られるが、このうたにしても、ステージの上に並んだ五人がクルリと回ってクラップするところは、陽気なテンプテーションズのまま。ポップグループが素のままで、これだけ社会性を持った作品を歌えたということだ、1970年には。
いくつか補足を。ジョンとヨーコが彼らのベッドに集まった面々と歌った1969年のソング〈平和を我等に〉は、bagism, shagism, dragism, madism...とあらかじめ決めた音に沿って、半ば自作の言葉を並べる。それを「さすがにうまくやった」とディランは述べつつ、元素周期表のうたとそうは違わないよね、とウィンクしてみせる。貶められているのは、中東戦争についてP・F・スローンが書いたうたを、バリー・マクガイアが歌って、1965年の夏にビルボードのナンバーワンを射止めた〈明日なき世界 / Eve of Destruction〉が一つ。もう一つは、消滅させられたチェロキー族の国家を歌う〈嘆きのインディアン / Indian Reservation〉だ。社会問題をウケ狙いのトピックにする安易さが糾弾されている。
18■Poison Love
ポイズン・ラヴ──ジョニーとジャック
ジャック・アングリンは、もともと兄弟でバンドを組んでいたが、ジョニー・ライトと出会って1939年、チームを組んだ。二人ともナッシュヴィル近郊の出身である。(このときジョニーは、妻と妹と一緒に演奏していた。その妻こそ、後に女性カントリー・シンガーの草分けとして歴史に名を刻むキティ・ウェルズだ。)南部風のドライヴの効いたジョニーとジャックの演奏は、派手ではなかったが、着実に人気を固めていく。第二次大戦に従軍して帰還後、〈ポイズン・ラヴ〉のヒットまで時間はかかったが、1952年に「グランド・オール・オープリ」にキティ・ウェルズと一緒に初登場すると、以来二人は常連としてステージに立ち、1963年、飛行機事故で死亡したパッツィー・クラインの葬儀に駆けつける途中、ジャックが交通事故死するまで、何枚かのヒット・レコードも放った。カントリー音楽のルーツに根ざした彼らの音楽性は、その安定ゆえに、ニューオーリンズやカリブ諸島由来の要素も自由に取り入れた──という点をディランは高く評価している。(ちなみに〈ポイズン・ラヴ〉のロックンロール・バージョンもリリースされた。)
音源としては、『The Tennessee Mountain Boys』という1958年のアルバムなどがCD化されているし、Spotifyに「This is Johnnie and Jack」という名のプレイリストがある。
ヒット曲〈(Oh Baby Mine)I Get So Lonely〉(1953)を「オープリ」の舞台で歌う二人の映像も出回っている。
本文に、カントリー系のデュオの名が次々と出てくるので、普段聞かない読者のために詳細を添えると──
ベイルズ・ブラザーズは、ウェスト・ヴァージニア出身の四兄弟だが、四人で舞台に立つことはあまりなかった。40年代から50年代にかけて、グランド・オール・オープリとルイジアナ・ヘイ・ライドの両方のステージで人気を博した。
スタンリー・ブラザーズは、カーター(ギター)とラルフ(バンジョー)の二人による、ヴァージニア出身のブルーグラス・デュオで、日本でも人気は高い。
エヴァリー・ブラザーズは、さすがに紹介不要か。〈起きろよ、スージー / Wake Up, Susie〉など、いくつかのホップ・クラシックをヒットさせたテネシー州出身のドンとフィルの兄弟は、ロックンロールのリズムに乗った美しいハーモニーを、ビートルズに伝授したとも言われる。
ジョニーとジャックと一緒に、カントリー音楽を革新した功労者として名が挙がっている一人が、プレスリーやジェリー・リー・ルイスと同時期にサンからレコードを出していたウォーレン・スミスと、ビリー・リー・ライリーだ。スミスの〈赤いキャデラックと黒い口髭 / Red Cadillac and Black Moustache〉は、ディラン自身カバーしている(2001)。ライリーの〈空飛ぶ円盤ロックンロール / Flyin' Saucer Rock'n' Roll〉は、リトル・グリーン・メンという、いかにもB級SFっぽい名前のバンドがバックを務めるノベルティ・ソング。
19■Beyond the Sea
ビヨンド・ザ・シー──ボビー・ダーリン
ディランより5歳年長のボビー・ダーリンは、1973年、36年の生涯を閉じた。〈マック・ザ・ナイフ〉の章でも登場したが、本書で2曲取り上げられているアーティストは、他にエルヴィス・プレスリーと、ウィリー・ネルソンと、ジョニー・キャッシュと、リトル・リチャードしかいない。外国産のソングで他に入っているのが、ドイツの劇中歌〈マック・ザ・ナイフ〉と、イタリアからきて全米チャートを制した〈ヴォラーレ〉。そちらのテーマが「無限の飛翔」であるに対し、こちらも「果てしない航海」で、ある意味、この世の限界を突き破る点で共通している。
この世の限界を打ち破り、神々と同等の超越を手にしようとする不敬な試みに挑戦したアメリカ文学の英雄が、ハーマン・メルヴィル作『白鯨』(1851)のエイハブ船長である。86ページの抹香鯨に挑む人間たちの絵は、クレジットによれば、1839年のトマス・ビール著『抹香鯨の自然史』第二版の挿画(ウィリアム・ジェイムス・リントン画)。この絵から『白鯨』を連想する読者は、海の彼方を遠望する最初の版画の男に、小説の語り手イシュメールの姿を重ね合わせるかもしれない。
一方の、磯で抱き合う男女は、リチャード・バートンとエリザベス・テイラー。映画『いそしぎ』(The Sandpipers, 1965)の名シーンだ。
原曲、シャルル・トレネによる〈La mer〉の熟唱はこちら。
20■On the Road Again
オン・ザ・ロード・アゲン──ウィリー・ネルソン
「ケルアックの快作『オン・ザ・ロード』のアップデート版」というディランの紹介にはアイロニーが付きまとう。ジャック・ケルアックが小説の形にしたのは、既成社会の日常を飛び出して、圧倒的な大陸の神秘に包まれるような路上の疾走だった。1957年に出版されると熱い反響が起こり、ビート族というボヘミアンたちが一部の都市に群れるきっかけとなった。ホット・ジャズへの陶酔が描かれるこの小説に、ディラン自身が実際どのくらい影響されたかは定かでないが、ケルアック好みの「サブテレニアン」とか「デゾレーション」とかの語が、ディラン・ソングのタイトルにも出てくるのは確かである。
もちろんディラン自身の〈オン・ザ・ロード・アゲン〉も有名だ。よければ『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』を再チェックしてほしい。ナンセンスな出来事が次々起こる、ケルアック顔負けの疾走ブルース。これが出たのが1965年で、そのあたりから大衆化したヒッピー族が登場し、その風俗が消えて、70年代の、自分の周りの居心地よさにこだわる「ミー・ディケード」が始まった。それも終わってレーガンを大統領とする、物質礼賛の時代が訪れた。その1980年に、映画『忍冬の花のように / Honeysuckle Rose』が公開。ヒットのないまま中年を迎えるミュージシャンとその家族を描く主演にウィリー・ネルソンが抜擢され、その主題歌として書かれたこのうたが全米チャートを駆け上がった。
その頃までに、ディランは「ローリング・サンダー・レビュー」の長いロードも終え、ゴスペルのサウンドに乗せてキリスト愛を歌う、スピリチュアルな旅を始めていた。
21■If You Don't Know Me By Now
二人の絆──ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツ
ケニー・ギャンブルとレオン・ハフの作になる、数多くのゴールド・ディクスの一つ。心安まる70年代フィラデルフィア・ソウルの代表的グループ、ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツが歌った中でも聞き覚えのあるメロディなのは、シンプリー・レッドによるリメイク・バージョン(1989)の世界的なヒットのおかげでもある。
邦題は〈二人の絆〉だが、この絆は、大分ほころびがきている。サビで繰り返されるのは、「今でも俺のことを分かっていないなら、永遠に分かってもらえないだろう」。その思い上がりをディランのテクストは責める。自分は理解されて当然、みたいな口を利く男って、いるんだよな、特に偉そうにしている奴らに。ヴァースもいけない。「帰宅がちょっと遅かったからって、おまえ……」みたいに始まる、説き伏せの言説。「波風立てることはないだろ、な? 男にはさ……」みたいな目線のうた。たしかに過去には多かったかもしれない。1972年といえば、まだウーマン・リブの闘争の頃で、一般のポップ・ファンの男女関係は、相互補完の理想がまだまだ強かった。「意識の遅れた」それらを代表して、この耳障りのいい、売れ線のポップソングが、吊し上げられる。「自己崇拝ソング」という言い方が痛烈だ。
だが、このエッセイの本当の読み所は、最後のセクションで突然始まる、宗教心の衰退へのコメントの方にあるように思える。男女間の諍いの場面に限らず、現代人がふくらませるプライドの罪。これはかつてのキリスト教社会に重くのしかかっていた「七つの大罪」の、筆頭に位置づけられたものだ。
神に翻弄されながら、人間がいかにちっぽけな存在であるかを学ばされる聖書「ヨブ記」の物語にボブは触れる。プライドを失わないことが何より大事という教育が徹底しているアメリカで、神の前にひれ伏す気持ちが消えたらどういうことになるか。その現実を私たちは目の当たりしつつあるような気もするが、世俗化がもたらした心の空隙を埋める役を、ラヴソングが果たすことができるのか? それにはソングに対するどんな姿勢が必要か? 最後の文でディランが、そういうことを問うているのだろうか?
22■The Little White Cloud That Cried
泣いた小さなちぎれ雲──ジョニー・レイ
ジョニー・レイを忘れた人でも〈雨に歩けば〉のメロディには親しみがあるかもしれない。♪“Just walking in the rain...”プレスリーの〈ハウンド・ドッグ〉やプラターズの〈マイ・プレイヤー〉と英米のチャートを競い、日本の街角にもよく流れたメロディである。だが、50年代前半の少女を夢中にした、ジョニーの剝き出しの感情は、到来したロックの時代を生き抜くことはできなかった。
A面〈クライ〉B面〈ザ・リトル・ホワイト・クラウド・ザット・クライド〉のシングルは1951年発売の、ジョニー初のシングル盤。両面がヒットしたが、〈クライ〉の方はビルボード誌の1952年の年間チャートでも3位に入る、老舗のオーケー・レコードにしても画期的なヒットを記録した。“Crying”も“Tears”も日本における「涙の」も、流行歌の定番タイトルだったとはいえ、感情吐露の芸をジョニーほど煮詰めていったアーティストは稀だろう。
そして、ディランがわざわざピックアップして示した「泣き喚いたレコードたち」のリストがすごい。検索して聞き始めると、ロックンロール前夜のレコード文化が今とはまるで違っていたことを思い知らされる。リストの最初の(リトル・)トミー・ブラウンは、ザ・グリフィン・ブラザーズと歌った〈ウィーピン&クライン〉(リストの下から二つめ、1951)でR&B界の「泣き」の潮流に貢献した歌手。ロイド・プライスはプレスリーもレコーディングしている〈ローディ・ミス・クローディ〉(1952)で知られる。ビリー・ワード&ヒズ・ドミノスは、後にザ・ドリフターズを率いるクライド・マクファターを擁して1951年、〈シックスティ・ミニット・マン〉という、エッチな連想を刺激するうたを、全米チャートに送り込んだ。リトル・リチャードとプレスリーが登場する以前の、刺激を求めてくすぶる少年少女の心には、涙の刺激がお手頃な売り物になったということなのだろうか。
その時代に、感情一杯、上げ上げの歌唱で人気を得たジョニーは、続いて登場するプレスリーを始めとする、クールでセクシーでバイオレントな男の表象によってかき消されてしまった。だが彼の時代の、泣きの芸にも忘れがたきものがあると、本書に記録したディランのおかげで、ロスコー・ゴードンが大泣きするブルース(1952)まで、世界のみんなが、こうして楽しめるわけである。
なお103ページの写真は、1948年のニューヨーク、ブロードウェイのレコード店。当時のエマーソン・ラジオの画像など検索してみるのとまた面白い。泣き声のレコードを再生しながら、朝鮮戦争前後のアメリカを、想像の中で歩き回ってみるのも楽しそうだ。
23■El Paso
エルパソ──マーティ・ロビンズ
見たところ日本語版ウィキペディアには立項されていないマーティ・ロビンズが、いかに大物か、英語版を見るとわかる。「四つのディケードにわたって最も有名なカントリー&ウェスタンの一人であり続けた」と書いてある、歌手で俳優、マルチな楽器演奏、カーレース、いろいろこなした。美声の美男子、西部劇のヒーロー。この〈エル・パソ〉は1959年のビルボード、ホット100の1位になった曲で、これが収録されている『ガンファイター・バラッズ&トレイル・ソングズ』がやはりベストということになるのだろう。〈ビッグ・アイアン〉〈今夜の俺は縛り首〉〈ビリー・ザ・キッド〉など、西部劇全盛時代の端正な歌唱が続く。一般には、カントリー界の中軸のイメージがあり、彼との違いを打ち出すために、ウェイロン・ジェニングスやウィリー・ネルソンの、翳りのある、埃っぽい歌手像が生まれたとされる。しかしディランの読み込む〈エル・パソ〉は、そういう表面的な像とは別レベルにある。
英語に置き換えればEl PasoはThe Passである。「通り抜ける道」を原意に「峠」の意味合いで使う。ディランは「異世界への入り口」という意味も読み込んでいる。エル・パソの町の所属はテキサスだが、メキシコの町ホアレスと、ニューメキシコに接している。メキシコ系住民が圧倒的なこの町から100キロほど北には、ホワイトサンズのミサイル基地がある。第二次大戦後、ナチスドイツから運んできたV2ロケットの更なる開発実験を、フォン・ブラウン博士に続行させたところ。と同時にマンハッタン計画も進行し、そのまた北の砂漠には、人類史上初の原爆の爆心地(グラウンドゼロ)となったトリニティ・サイトのあるところ。
このエッセイでは死のイメージが何重にも塗り重なってくる。映画の記憶としては、1938年以来の、ロイ・ロジャーズ主演のカウボーイものが言及されるが、「悪魔のハイウェイ」につながるこの地では、西部の生を彩るすべてがついえる。アラブの色男(シーク)でも、南米のマッチョなカウボーイ(ガウチョ)でも、メキシコの闘牛のマタドールでもいられない。掟を破ったきみは死んでいく。それはもう決まっていること。このうたは運命を歌う。登場するのは人物も場所も出来事もすべて象徴だ。メキシコのカンティーナで、ローサと戯れる若者を撃ち殺し、馬を盗んで追っ手の銃弾を浴びる。そこにローサが表れる。最後のシーンは、ボブ自身が出演した『ビリー・ザ・キッド / 21才の生涯』に流れる〈天国への扉〉を思わせる。
しかしディランは、これは一つの物語ではない、というのだ。古代エジプト、メソポタミア、アステカ、ユダヤのホロコーストとも重なりあうのだと。歴史を抜けて、マジに神の生け贄となるレベルまで想像を深めさせる。とにかく乱射されるディランの言葉を、念じるように味わうしかないテクストである。
最後に、短編小説のように長くて、永遠の三拍子が続くこの曲の構造について、ディランが解説をつけている。余計にはみ出た「プレリュード」の部分が推進の役割を果たしているという。なるほどね。
24■Nelly Was a Lady
ネリー・ワズ・ア・レディー──アルヴィン・ヤングブラッド・ハート
1848年シエラ・ネバダに金鉱が発見されて、以後何年か、「フォーティナイナーズ」と呼ばれる発掘人が、文字通りの一攫千金を目指してカリフォルニアへ向かうゴールドラッシュに沸いた。彼ら金堀人に因んでよく歌われたのが、同じ1848年に楽譜出版された、スティーヴン・フォスター(1826-64)の〈おおスザンナ〉の替え歌である。──「俺ら、パンニング皿を膝に抱えて、カリフォルニアにいくんだ、黄金の屑を拝みにな」という歌詞をもつ。いや、ペリー提督の黒船に先立つ嘉永年間のアメリカを想像しようとして、本題から外れてしまった。
元歌は、黒人が「バンジョーを膝に抱えて、ルイジアナに行くんだ」という歌詞で、黒塗りの役者が演じる「ミンストレス・ショー」を通して社会に広まった。ポピュラーな演し物の公演を通して、ソングライターの書くうたが、人口に膾炙するという現象が、世界に先駆けて、ゴールドラッシュの時代のアメリカで起こったのである。これを、商業的なポピュラー音楽の始まりと見なすことができるだろう。
クリスティ・ミンストレルズという一座の座付きソングライターになったフォスターが、〈おおスザンナ〉や〈草競馬〉のような“黒人風”のダンス曲に織り交ぜた、沈鬱にメロディアスな曲がこれである。この後、書かれた〈故郷の人々〉は、歌い上げる要素の混じった望郷ソングで、このうたが、階級を超えて口ずさまれるようになり、中流家庭へのピアノの普及と相まって、アメリカに欠けていた国民レベルの音楽文化をもたらすに至る──いや、これはアメリカ音楽史の授業内容だ。
ディランが比較するエドガー・アラン・ポー(1809-49)は、フォスターより年長ながら、ほぼ同じ時代を生き、探偵小説、SF小説、怪奇小説といった、現代に通じるジャンルをアメリカに興した。片や庶民のメロディーで想像力豊かな世界を膨らませるフォスター、片や扇情的かつ気風の高い散文を一気に読ませる名手ポー──ヨーロッパ階級社会で発達する歌曲や文学とは異なるアートを19世紀半ばのアメリカで花開かせた特性が、一世紀以上経て活躍を始めたディランにまで、脈々と受け継がれてきたといっていいのだろうか? これを知るには大々的な研究を必要とする。
〈ネリー・ワズ・ア・レディー〉の悼ましさは、be動詞文の単純さと、wasの過去時制にある。わらべ歌のように単純なメロディは、密集和声の四重唱(バーバーショップ・ハーモニー)で膨らませるのにも最適で、長い年月歌い継がれてきた。ディランは本書のなかでも断トツに古いうたを、登場する中でおそらく最若手のアルヴィン・ヤングブラッド・ハートに歌わせる。1963年のカリフォルニアに生まれたハートは、ミシシッピー・デルタ・ブルースの伝統の実践者として出てきた男だ。名盤『ダウン・イン・ジ・アレー』(2002)で、チャーリー・パットン由来の野太いブルースを披露したハートは、ここでは余計な感情も力みもなく、マジな悲しみの歌をソロで歌いこなしている。
25■Cheaper to Keep Her
チーパー・トゥ・キープ・ハー──ジョニー・テイラー
「ソウル」といってもいろいろだ。本書は、モータウンから、テンプテーションズとエドウィン・スターの2曲のメッセージ・ソング。フィラデルフィア・ソウルからは〈二人の絆〉1曲、よりダウンホームなソウルの本場スタックスからのエントリーが、これである。ジョニー・テイラーは、1950年代半ばにゴスペル・グループにいた頃から(ポップに転向してサム・クックの後釜としてソウル・スターラーズのシンガーを務めたのが彼)、ブラック・ミュージックの広範な展開に貢献した。ストリートの叡知を知る男、とディランが敬意を払うのもうなずける。
keepの次にくる、弱い音節の「h」の音は脱落しがちなので、cheaperとkeep'erはきれいに韻を踏む。滑稽なほどに語呂のよいフレーズがバッチリだったのか、ブルース・ブラザーズが、1998年公開の続編映画(『ブルース・ブラザース2000』)で、いかにも楽しそうにこれを歌っていた。
しかしこのタイトル、1973年の黒人街でならともかく、現代そう大っぴらに口に出来る言葉ではない。「飼う(キープ)って何?」「安上がり、ですって?」反発が一斉に起こりそうだ。だが二度の離婚を経験したディランも引かない。(1977年にサラが離婚訴訟を起こしたときには、「結婚を終わらせようとする行為には制裁が必要だ」という発言をしたという。)ここではもう確信犯的というか、ほとんど意を決して、男の本音を吐露する芸に勤しんでいるかのようだ。
だがこのうたの歌詞自体は、実にクールだ。英語もやさしいし、生きる知恵を授けてくれる。
116ページの口絵は、ブロードウェイの問題作を映画化した『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』(1966)を演じるエリザベス・テイラーとリチャード・バートン。120ページの「1-800-」はフリー・ダイヤル。アメリカのダイヤル電話には数字と一緒にアルファベットがついていて、無料の回線でDIVORCEと回すと、離婚弁護士のオフィスが面倒を見てくれるというしくみ。その前119ページにスペイン語と英語2カ国語で書かれているのは、メキシコの国境の町ティファナにある離婚事務所。かつてアメリカ人相手の中絶医療でも潤ったこの町、離婚ビジネスも盛んだったようである。
26■I Got A Woman
アイ・ガット・ア・ウーマン──レイ・チャールズ
ロックンロールの時代を画する出来事として、かつては〈ロック・アラウンド・ザ・クロック〉のヒットや、RCAからのプレスリーのメジャー・デビューが中心的に語られたが、それらに先立つ50年代前半のさまざまな出来事が重要で、その一つが、黒人のゴスペルの要素のR&Bへの流入である。サム・クックやアリサ・フランクリンに先立って、その動きを牽引したのがレイ・チャールズだったという点に異論はないだろう。アーメット・アーティガンが経営するアトランティック・レコードと契約して3年目、リリースしたこの曲〈アイ・ガット・ア・ウーマン〉が、R&Bチャートの1位を射止める。歌詞は本文にある通り、ずいぶんと俗な感情を歌っているが、メロディは、サザン・トーンズのゴスペル曲〈イット・マスト・ビー・ジーザス〉とそっくりだと指摘されている。もちろん感情の掻き立て方が違う。いくらスピリットが盛り上がっても、それが肉感的な感情を抑えることのない、新しいポップ音楽の実践が始まったのだ。
“I got a woman, way over town”「町を通り抜けた向こう」と訳したが、マイアミには、Overtownと呼ばれる、歴史的な黒人居住区があるから「黒人街の奥深く」と解釈していいのかもしれない。ラヴィン・スプーンフルの〈サマー・インザ・シティ〉(1966)に「マッチヘッドより熱い舗道」というラインがあって、それも借用されている。マイアミでなくてもいいが、とにかくムッとする真夏の都市の雰囲気を味わいたい。
メジャー・デビュー曲〈ハートブレイク・ホテル〉をナッシュヴィルで吹き込んだとき、プレスリーはこれも吹き込み、シングル盤にしている。ステージでもよく演奏した。そんなこんなで、中学生のディランの記憶に残るうただったのだろう。(一緒に載せている男性向けパルプマガジンの扇情的な表紙も、同時期の刺激的な記憶なのかもしれない。そのあたりの事情は、同学年のジョン・レノンもきっと同じだ。1963年のBBCテレビにビートルズが出演したとき、ジョンが〈アイ・ガット・ア・ウーマン〉を歌っている。)
レイのレコードをテナーサックスで守り立てるデヴィッド・“ファットヘッド”・ニューマンもファンは多いだろう。125ページの写真は、〈ホワッド・アイ・セイ〉等でレイのバックコーラスをつけているレイレッツ。
27■CIA Man
CIAマン──ザ・ファッグス
ビートルズが『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』(1967)という、当時の耳にとても「奇妙な」アルバムを出した頃、もっとすごいのがいるんだとよく紹介されたのが、西海岸のマザーズ・オブ・インヴェンションであり、ニューヨークのザ・ファッグスだった。音楽の才人フランク・ザッパの率いる前者とは対称的に、ザ・ファッグスは、ビート詩人で活動家のトゥリ・カッファーバーグと若手の仲間エド・サンダースを中心に作られたコンセプチュアルなグループで、体制をおちょくるパフォーマンスが見事だった。中でも有名なのは、ペンタゴンへのヴェトナム反戦デモで行った「悪霊払い」で、これについてはノーマン・メイラーがノンフィクション小説『夜の軍隊』で詳述しており、その音源(吟唱)も、〈Exorcising the Evil Spirits from the Pentagon OCT. 21, 1967〉のタイトルで出回っている。
ディランもこういううたを相手にすると上機嫌になるのだろう。ジョニー・リヴァースの〈シークレット・エージェント・マン〉のB面にしたらよかったとか軽口を飛ばしている。(こちらはジャニーズ系のアーティストが今も歌い継いでいる、ギターリフがかっこいい、60年代のエレキ・ポップのナンバーだ)
ファッグスは汚くて可笑しくて、アングラな世界に常住する。その魅力が英語の語感に頼るところが大きく、ハードルが高いのは事実だが、〈ジョニー・ピスオフ・ミーツ・レッド・エンジェル〉も〈スラム・ゴッデス〉もその味わいは伝わるだろう。〈コカコーラ・ドゥーシュ〉の歌詞は、このドリンクでの洗浄が緊急避妊に効くという都市伝説を知らなくても、十分にオモシロ嫌らしい。ヴィレッジにディランが出てきた頃はディランもビート的感性をもっていろいろと猥雑なうたを試しており、〈ジョン・バーチの狂信を語るブルース〉とか〈ボブ・ディランのニューヨーク・ラグ〉とか、一歩言葉を踏み外せば、ファッグスの世界に陥りそうな作品も書いていた。
129ページの身分証明書は、アレン・W・ダラスCIA長官(1953-61)のもの。彼の実兄がアイゼンハワー政権の国務長官ジョン・フォスター・ダレスで、どちらの人物もリベラルなアメリカ人からすれば、アメリカ史の汚点と見なされる。
28■On the Street Where You Live
君住む街角──ヴィック・ダモーン
イタリアから若くしてやってきた、ピア・アンジェリがまだ10代で戦争花嫁を演じた『テレサ』(1951)をボブ少年はスクリーンで見ていただろうか。シナトラに惹かれて歌い始め、ペリー・コモに認められて歌手として独り立ちしたヴィック・ダモーンはそのときすでに、エド・サリヴァン・ショーのゲストもこなすほどの人気があった。二人の結婚は1954年11月。その前、初の主演に抜擢された映画『エデンの東』の撮影中に、ジェイムズ・ディーンが(別の映画を撮影中の)ピアに恋したというのは本当らしい。ピアとヴィックの結婚式の教会の外で、オートバイにまたがったJDが目撃されたというのも、ただの都市伝説ではないらしい。『エデンの東』(1955)で一躍スターになった彼は、同年『理由なき反抗』と『ジャイアンツ』を撮影して、9月、カリフォルニアの平原で衝突事故死する。
ヴィックの「君住む街角」を語り直すディランの筆致はことさら意地悪い。“All at once am I / Several stories high”(突如わたしは、数階の高さへ舞い上がる)という歌詞を、文字通りに解釈してコミックアニメにしてしまう。彼を打ち上げる「クラウドバスター」とは、マッド・サイエンティストの風貌を持つ精神分析家ヴィルヘルム・ライヒの提唱したもので、性エネルギー(オルゴン)を利用して気象をコントロールできるのだそうだ(詳細はネット検索で)。
ディランはこのうたの韻のつけ方までコメントを挟んでいるが、作詞作曲のコンビ、ラーナー&ロウは、全盛期アメリカ・ミュージカルを代表するコンビの一つで、『マイ・フェア・レディ』(舞台1956、映画1964)の楽曲も、彼らの手による。
29■Truckin'
トラッキン──グレイトフル・デッド
60年代を共に歩んだミュージシャンのエントリーが本書にはほとんどない──ザ・バーズもザ・バンドもない──中で、アメリカのロックバンドとしてほとんど唯一、賛美の対象として引っ張り出されるのがグレイトフル・デッドである。(オールマン・ブラザーズやイーグルスやサンタナの曲も登場するけれども、バンド自体についての言及はない)。
グレイトフル・デッドの名で最初にプレイしたのは、ケン・キージーとメリー・プランクスターズによる「アシッド・テスト」と呼ばれる、一般に開かれたLSDパーティの会場で、以来デッドには、ヒッピー文化の火付け役としてのイメージがつきまとったが、60年半ばにサンフランシスコに結集した他のサイケデリック・グループとは、音楽性の質もレベルも違っていたというのがディランの見立てだ。
作曲家でクラリネット奏者アーティ・ショウのバンドは戦前・戦中・戦後を通して、アメリカを踊らせた。(ピンチョンの小説『ヴァインランド』に、ハワイから帰国した海軍兵と左翼系闘士の娘が踊り明かし、生まれた子をショウのヒット曲にちなんで「フレネシ」と名付けるという一節があった。)
言及される、コーエン兄弟の『オー・ブラザー!』の中でも美しい川辺のシーンも、〈Down in (to) the River to Pray〉の曲名で鑑賞できる。この映画でフィーチャーされる〈マン・オブ・コンスタント・ソロー〉は、ディランがデビュー・アルバムで歌っていた。デッドのメンバーとルーツ音楽の関係は古く、深い。それを知るディランは、トリップス・フェスティバル(1966)やモンタレー・ポップ・フェスティバル(1967)で売り出された、ジェファーソン・エアプレインを始めとするグループと差異化している。
ドラマーのビル・クロイツマンが比べられているエルヴィン・ジョーンズは60年代前半にジョン・コルトレーン・カルテットのドラマーとして知られたジャズ界の大物。ジェリー・ガルシアのリード・ギターを形容するのに、ジャズのチャーリー・クリスチャンと、カントリーのドク・ワトソンを同時にもってくるあたりは、このバンドの学際的ならぬ「楽際的」なありようとディランが愛でているところだ。念のため言い添えれば、ディランとデッドとは一時期一緒にツアーをやり『ディラン&ザ・デッド』(1989)というアルバムも出している。ディランのアルバム『トゥゲザー・スルー・ライフ』(2009)は、1曲を除いてすべて、デッドのソングライター、ロバート・ハンターとの共作である。
この〈トラッキン〉という曲は1970年のアルバム『アメリカン・ビューティ』に入っている。三人の中心メンバーにロバート・ハンターを加えてみんなで作った。彼ら自身の長いロードの経験をみんなして放り込んだようなうたで、題名のtruckin'はKeep on trucking(辛抱強く続けよ)の意味。その後に「ドゥーダー・マンのように」と続くが、これはフォスターの〈草競馬〉からの引用──「オイラは帽子をへこませて、ドゥーダー・ドゥーダー」というあれである。オリジナルは19世紀半ばのミンストレル・ショーで、黒人訛りで歌われた。ディランが読み取っているように、そこには歴史を超えて脈々と流れるアメリカのアメリカ性がある。「シカゴもニューヨークもデトロイトも、どこも同じストリート」という歌詞が、初期ソウルの名曲〈ダンシング・イン・ザ・ストリート〉の「シカゴでも踊る、ニューオーリンズでも踊る」と似て非なるものであるという点は、なるほど重要だ。
アメリカのストリートについてはディランも歌ってきた。リアルで惨めな人間たちの住む〈荒れ果てた通り / Desolation Row〉があり、名門女子大生が落ちぶれてさ迷い込む〈ライク・ア・ローリング・ストーン〉のストリートがあり。恋に憑かれて歩き続ける〈ラヴ・シック〉のストリートがあった。ここでデッドが歌うのは、かつて、映画館のひさしが輝き、道の両側に多くの個人経営のショップが並んでいたメインストリートである。「ダラスにはソフト・マシーンがある」という歌詞からは、ビート作家ウィリアム・バロウズの小説の危険な香りがある。コーラスとヴァースが交叉する歌詞の三つめのヴァースで、「スイート・ジェイン」とあるのはマリファナのこと。デッドもその中心にいたドラッグ・カルチャーのことがここで歌われている。次には逮捕された経験も歌われている。フィル・レッシュのベースが曲を前に進めているというのは本当だ。賑やかだがクールなうたである。
30■Ruby, Are You Mad?
ルビー、怒ったのか?──オズボーン・ブラザーズ
ある年齢層の人は覚えているだろう、1963年11月のケネディ大統領暗殺の2日後、射殺犯として逮捕されたリー・ハーヴェイ・オズワルドが警察管内で、メディアのカメラの並ぶ中、ジャック・ルビーによって撃ち殺された。142ページはジャック・ルビーの写真である。
もちろん、このうた、ケネディ暗殺とは何の関係もない。
ボビー(高音ボーカル、マンドリン)とソニー(バンジョー)のオズボーン兄弟が中心となって結成されたオスボーン・ブラザーズ。1953年から半世紀を超えてブルーグラスを歌い続けた。ブルーグラスは、ジャズ感覚が入り込んでルーツ志向を強めたカントリーの音楽で、1940年代にビル・モンローが創始し、バンジョー奏者のアール・スクラッグズがマンドリニストのレスター・フラットと共に快速奏法を確立。ディランがヘビーメタルに喩えるスタイルを突き進んだオズボーン・ブラザーズは、後を受けてピアノプログレッシブ路線を進む。電気楽器を入れ、ピアノ、スチールギター、ドラムを取り入れる。そうやってカントリー・ファンに食い込み、グランド・オール・オープリの常連の地位に長く留まった。1967年のヒット曲〈ロッキー・トップ〉はテネシー州歌の一つに数えられている。
ルビーという名の女性の名は、たしかにあまり聞かない。〈ルビー・マイ・ディア〉はセロニアス・モンクの曲(ピンチョンの小説『V.』に出てくるパオラが、オーネット・コールマンを思わせる登場人物マクリンティック・スフィアの女になってルビーと呼ばれるのは、この曲の影響か)。〈ルビー・チューズデイ〉はご存じローリング・ストーンズのメロディアスなバラード。〈ルビー・ベイビー〉はザ・ドリフターズが歌った60年代初頭のポップ曲だ。
ディランは最高級の賛辞を、この高出力のブルーグラス・バンドに送っている。
ヘビーメタルのレジェンドとして名が挙がる二人。ロニー・ジェイムズ・ディオはレインボー、ブラック・サバスを経て、80年代以後にみずからの名を冠したバンド、ディオを率いたボーカリスト。イングウェイ・マルムスティーンはスウェーデンの超絶ギタリスト。彼らのヘビメタ美学に近いものを、オズボーン・ブラザーズが持っているかどうか、上記のライヴ演奏を聴いて確かめてほしい。
31■Old Violin
オールド・バイオリン──ジョニー・ペイチェックズ
アメリカ音楽を底で支えた楽器といえば、バンジョーとバイオリン(フィドル)である。オズボーン・ブラザーズに続いて〈オールド・バイオリン〉が並べられた。
“ジョニー・ペイチェック”の物語は本文で雄弁に語られている。ジョージ・ジョーンズやウェイロン・ジェニングスに注釈を入れるのは野暮だが、タミー・ワイネットがジョージ・ジョーンズの妻で「夫に挺身する妻」の歌としてフェミニストの間で悪名高い〈スタンド・バイ・ユア・サイド〉を60年代の大ヒットにした歌手だということを、日本で知る人は少ない。そういう自分も、タミーの歌う〈アパートメント#9〉も、ジョニー自身が歌う〈ごめんなさいよ、おれ、人を一人殺すんで / (Pardon Me) I've Got Someone to Kill〉も、聴いたことがなかった。
1977年に彼が歌ってヒットした〈こんな仕事、辞めてやる / Take This Job and Shove It)は、よければ音源を鳴らしてみたい。
この歌と同名の映画が後に作られ、作者のデヴィッド・アラン・コーと共にジョニーも端役で出演した。15年同じ職場で働いてきたが、もうコリゴリだと啖呵を切って溜飲を下げる歌である。
ドク・ポーマスのエピソードも出てくる。本書が捧げられている相手だ。彼の書いた〈ラストダンスは私に〉、ザ・ドリフターズの持ち歌だが、日本では越路吹雪の歌唱で記憶している人が多いだろうか。「貴方の好きな人と踊ってらしていいわ」という訳詞は、この歌を書いたときのドクの気持ちがまるで反映されない。だがそんなものは反映されないほうがよい、とボブはいう。
32■Volare(Nel blu, dipinto di blu)
ヴォラーレ──ドメニコ・モドゥーニョ
ジプシー・キングスの版が1980年代の日本でもよくかかった。宣伝にも使われた。松崎しげるバージョンもあった。ドメニコ・モドゥーニョのは、昭和33年。テレビが普及する前ラジオで聴いた記憶があるが、はて、誰がカバーしていたのだろう。
〈ビー・マイ・ベイビー〉がこの本のどこかに出てきてほしいと願っていたが、ここに出てきた。弘田三枝子バージョンでいうなら「いつまでもおお」の後「ウォー・ウォー・ウォー・ウォー」が、〈ヴォラーレ〉からの借用だというのだ。そうかも。
Volareは「飛べ」。Cantareは「歌え」。正式な題名は、“Nel blu, dipinto di blu”で、直訳すると「青く塗られた青の中へ」となる。先に触れたピンチョンの小説『ヴァインランド』で、ヒッピー男のゾイドが、フレネシの目の青さを、この〈ヴォラーレ〉のフレーズで形容するところがある。ディランが「サイケデリックな幻覚ソングの第一号」という感覚は、それと符合する。すべての限界を突き破って幻想に舞い上がる。
飛翔幻想の中で、眼下に置いてきぼりを食らわせる連中(第三パラグラフ)のことを「物知り顔で裁定し、徒党を組んで争う連中」に当たる原語は“the connoisseurs, the judges and cliques”。ディランはよくよく、自分の専門家を気取る「ディラノロジスト」につきまとわれた。額を寄せ合ってテクストの解釈に勤しむ、大空を飛べない人たちを、こういう文中に放り込んで楽しんでいるのか。
60年代の幻覚ソングの代表として比較されるジェファーソン・エアプレインの〈ホワイト・ラビット〉は、1967年のアルバム『シュールリアリスティック・ピロウ』中のうた。ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』に出てくる幻覚キノコ等のモチーフを膨らませたうたであることも手伝って、今も認知度は高い。
157ページの『サンダーバード』は、日本でも放映していたイギリスの人形劇(スーパーマリオネーション)の傑作。もっと早い時期に日本製の『宇宙船シリカ』という連続マリオネットがあったが、こちらの認知度は高くないかもしれない。
33■London Calling
ロンドン・コーリング──ザ・クラッシュ
本書にニューヨーク・パンクからの選曲はなくて(ファッグスは別格)、ロンドンからもセックス・ピストルズではなく、クラッシュが選ばれた。攻撃性とは違う、逼迫した、デスパレートな感性が、ディランの美学に合うのだろう。
1976年に結成されたクラッシュは、「衝突」というグループ名とは裏腹に、80年代へと生き延びた。〈ロンドン・コーリング〉は1979年の同名のアルバムに入っており、このアルバムは「ローリングストーン」誌が選んだ同年の最優秀アルバムに──ニール・ヤングの『ラスト・ネヴァー・スリープス』等を抑えて──選ばれた。
〈英国は振り子のようにスイングする〉という1965年のハッピーな曲が引かれているのは、〈ロンドン・コーリング〉の歌詞に「俺たちにもうスイングはない」という一行があるから。ビートルズのことも、ディランが率先して貶めているわけではなく、「偽りのビートル熱はくたばった」という歌詞に便乗してのこと。
同じ川でも大陸の真ん中を、文明と荒野の境を滔々と流れるミシシッピー川は、ロンドンのテムズとは対称的だ。“live by the river”というフレーズから、アメリカ人が想うのは、たとえばマーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』である。ミシシッピー川は文明の汚れを押し流し、文明の手の届かない彼方の地へと運んでくれる。この「彼方」への信仰がアメリカには、少なくともカウンターカルチャーの時代までは根付いていた。